【小説】サービスの利息

Aki Dortu

サービスの利息

海外転勤、と言うと聞こえは良い。

実際は、社内の歯車が一つ欠けた穴に、たまたま俺が嵌め込まれただけだ。現地拠点の情報システムが回らなくなり、「言葉が通じ、現場に立てて、面倒を見られる」人間が必要になった。条件に合致したのが俺だった。以上である。


昼は会議、夜は障害対応。

日本との時差が、生活の背骨を歪める。こちらの昼は現地の顔で進み、こちらの夜は日本の顔で終わる。体の中を二つの時間が並走しているようで、部屋に戻るたび、自分の輪郭が薄くなる。


社宅は清潔で、静かで、どこにも引っかかりがない。

引っかかりのない場所は、長く居るほど息が詰まる。慣れる以前に、こちらが削られていく。


だから夜に外へ出た。

「ひとりで飲みたい」からではない。

ただ、部屋の無音に負けたくなかった。


最初に入った店は偶然だった。

社宅から歩いて十分。看板が明るく、笑い声が外まで漏れている。ひとりで腰を落ち着けられるカウンターがあり、言葉が通じるメニューもある。それだけで選んだ。


カウンターの端に座ると、スタッフが自然に声をかけてきた。


「初めてですか」


押しつけがましくない。

ひとり客を腫れ物のように扱わない。

その距離感が、ひどく助かった。


「転勤です。しばらくこちらにいます」

「お仕事は大変でしょう」


“分かってくれる”という感触が、喉の奥に引っかかった。

深い話をしたわけではない。二言である。二言なのに、ここで呼吸をしてよい、と許可が降りた気がした。


おすすめを一つ出され、小さな皿が置かれた。注文していない。

サービスと言われると断りづらい。断る理由もない。小さな親切は、受け取る側の理屈を鈍らせる。


その夜は、適当に飲んで、適当に帰った。

「また来てください」と言われ、笑って手を振った。社交辞令だと分かっているのに、胸のどこかで「必要とされた」と受け取ってしまう自分がいた。


翌週、また足が向いた。

理由は後づけで良い。仕事が終わって、部屋に戻る気になれなかった。ここに来ると、体内の時差が少しだけ整う気がした。


二回目は、席に着く前に顔を覚えられていた。

それが少し嬉しく、少し怖い。


「今日も遅かったですか」

「遅い日が多いです」

「それでは、いつものものを」


“いつもの”という言葉が、妙に甘い。

店の客として覚えられただけなのに、生活の一部として扱われた気がする。そういう錯覚は、疲れているときほど効く。


三回目、四回目。

週に二度、三度。

気づけば俺は、その店を帰り道にしていた。


会話は深くない。仕事の小さな愚痴、現地の食い物、天気、店の混み具合。

それでも生活にリズムが生まれる。転勤生活は、リズムがないと心が腐る。だから俺は、その店に“リズム”を買っていた。


ある夜、客が少ない時間帯に、彼は少し長く俺の前に残った。

普段は手際よく回しているのに、その日は言葉を置く余白があった。


「実は、夢があるのです」


夢の話は、たいてい控えめな顔で出てくる。

いきなり大声で「金を出してほしい」とは言わない。最初は“夢”。次に“計画”。最後に“お願い”になる。


「いつか自分の店をやりたい。今の店も好きですが、もっと——落ち着ける場所にしたいのです。仕事帰りの人とか、転勤で来た人とか、疲れている人が、息をつける場所に」


息をつける場所。

その言葉が、俺に刺さった。

俺がここに通っていた理由を、先に言語化された気がしたからだ。


「悪くないと思います」

「でしょう。あなたなら分かってくれると思った」


分かってくれる。

この年になると、分かってくれると言われる機会は減る。

仕事では「分かって当然」で、家庭では「分からなくてもよい」。

分かってくれる、と言われると、何かを返したくなる。返せるものを探してしまう。


翌週、彼は「昼に少し時間はありますか」と連絡してきた。

昼の街は、夜より現実的だ。光が乾いて、人の顔がはっきり見える。夜に許されていた曖昧さは、昼には許されない。


指定されたのは店ではなく、近くのカフェだった。

周りの目がある場所。だが、店の中よりは私的な話ができる距離でもある。


彼は小さなクリアファイルを出した。

中身は数枚の紙と、スマホの画面。内装のイメージ、ロゴ案、メニューらしきもの。整って見えるのに、軽い。軽いのは紙ではない。責任である。


「これを見てください」


彼は夢を語った。

場所はこの辺。雰囲気はこう。客層は地元と転勤者。コンセプトは“落ち着く”。音楽は静かめ。席数はほどほど。

言葉は滑らかで、絵面は綺麗で、未来だけが明るい。


俺の頭が勝手に仕事モードに切り替わった。

数字がない。

損益がない。

リスクの話がない。

“うまくいく前提”しかない。


「初期費用は、どの程度を想定していますか」

「色々ありますが、何とかなると思います」


何とかなる。

その言葉は、努力の誓いのふりをして、責任の放棄でもある。


「銀行からの借入は」

「実績がないので難しいです」

「共同経営者は」

「共同経営は面倒でしょう。揉めますから」


揉めるのが面倒だと言いながら、今まさに揉めない形で俺を巻き込もうとしている。

その矛盾に気づいた瞬間、胸の温度が一段冷えた。


彼は笑って、軽い口調で言った。


「あなたなら、少し助けてくれると思った」


助けてくれる。

分かってくれるの次に来る言葉。

来た、と思った。俺の中の“慣れ”が順番を知っていた。


「どれくらい必要なのですか」


彼は金額を言った。

絶妙だった。出せなくはない。しかし出したら引き返せない。断りづらい線。罪悪感が先に立つ線。


俺は断る理由を探し始めていた。

忙しいから。規定があるから。家庭があるから。嘘ならいくらでも作れる。

だが嘘で断ると、相手は次の嘘を探してくる。

真実で断ると、相手は真実を攻撃してくる。


「悪いですが、出せません」


言った瞬間、胃がきゅっと縮んだ。

悪いことをしたわけではないのに、“悪い”と言いたくなる。断る側の罪悪感は、いつも先に来る。


彼の笑顔が一瞬止まった。

ほんの一瞬。すぐにまた笑った。

笑い直す、その動きが妙に機械的だった。


「そうですか。残念です。でも、考えてください。あなたは賢い。分かるでしょう」


分かる、がここで来るのが怖かった。

分かるのは俺の頭であって、俺の財布ではない。

理解と支出は別物だ。

その別を曖昧にするために、分かるを使う。


「俺は転勤で余裕がありません。こういう話は、重い」


彼は「すみません」と言った。

“すみません”の言い方も上手い。こちらが「いえ、大丈夫です」と返す形が作られる。形ができれば、次が打てる。


俺は「大丈夫です」とは言わなかった。

言えば戻る。

戻れば、また何かを払うことになる。


それから、店に行く回数を減らした。

週に二度を一度にし、一度を二週間に一度にした。忙しいから、と自分に言い訳をした。だが本当は、目が合うのが怖かった。


久しぶりに行った夜、彼は普通に接客した。

変わらない笑顔。変わらないおすすめ。変わらないサービス。

それが逆に怖かった。

何もなかったことにされると、こちらの揺れだけが浮いてしまう。


転勤生活は、居場所があると楽になる。

居場所が壊れたとき、楽さは重みに変わる。


ある夜、通知が来た。


「元気?」


それだけだった。

絵文字もない。敬語もない。軽い。軽いのに、重い。


画面を見た瞬間、心臓が少しだけ跳ねた。

あの店の空気が、一瞬で戻る。夜の湿り気、カウンターの端、小皿のサービス、「分かってくれる」という言葉。

あれが全部、計算だったとは思いたくない自分が、まだいる。


返信欄を開いた。

指が動く。


「元気です。……あのときは、すみません」


そこまで打って、止まった。

“すみません”が自動で出る自分が嫌だった。

俺は何に謝っている。金を出さないことか。夢を信じないことか。利用されないことか。


文字をすべて消した。

もう一度打った。


「元気です。ありがとうございました」


それも消した。

安全な言葉ほど危うい。相手が何にでも繋げられるからだ。


最後に残ったのは、空の入力欄だった。


スマホを伏せた。

机の上で黒い画面が静かに固まり、部屋の中もそのまま静かだった。


窓の外では、知らない街の夜が普通に流れている。

誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが夢を語り、誰かが金を数える。

俺はそこから少しだけ距離を置き、息を整える。


転勤は終わらない。

明日もここで働く。明日もここで暮らす。

それでも、居場所を作ることと、居場所に値札が付くことは、同時に起こり得る。


それが分かっただけでも、十分だ。

そう思いたかった。


それでも、あの小さなサービスの味だけが、しばらく口の中に残った。

優しさの顔をした利息みたいに。

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