第9話

ヴォルフの意識が完全に闇に沈もうとしたその時、彼のニューラル・リンクに、冷徹で、しかしどこか震えるような熱を持ったエイダの声が直接流れ込んできた。


「ヴォルフ……あなたの『盾』としての役割は終わりました。ここからは、私の論理(エゴ)を通させてもらいます」


エイダのAランク生体演算脳が、クリニックの休眠していた全システムと不可逆的に融合(マージ)を開始する。クリニックの壁面が脈動し、古い配管が人工筋肉のように収縮を始めた。


「全リミッター、オーバーライド。クリニックの酸素供給、動力へと転用。……駆動系、接続」


エイダの演算により、クリニックは「治療の場」から、すべてを粉砕して進む「移動要塞」へとその姿を変貌させた。壁から巨大な掘削用ドリルが突き出し、脚部には重量級の無限軌道が展開される。


「ヴォルフを……独りにはさせない」


エイダがコンソールに手をかざすと、クリニックの正面装甲が、ヴォルフを飲み込んでいた瓦礫の山に向けて咆哮を上げた。


要塞化したクリニックが、ヴォルフを押し潰していた数トンの瓦礫ごと、正面の防壁を突き破った。粉砕された岩石の雨の中、エイダは要塞のクレーンアームを精密に操作し、土砂に埋もれていたヴォルフの「残骸」を優しく、しかし迅速に回収し、機内へと引き入れた。


「ヴォルフを回収……! 生命維持ポッドへ直結します!」


ナギが叫び、大破したヴォルフのフレームに無数の生命維持ケーブルを突き刺す。


「逃げるわよ! このまま地表まで突き抜けて、企業の鼻面に風穴を開けてやるんだから!」


要塞「アビス・アーバート」は、崩落する貯蔵庫を背に、地表へと続く垂直シャフトを逆送し始めた。頭上には、爆撃で赤く染まった荒野と、待ち構えるヘリオス・エア社の主力艦隊が見える。


地表に飛び出した要塞は、月明かりの下で銀色に輝く。


かつて奪われ、捨てられ、壊された者たちが、今や一つの巨大な「意志」となって企業の喉元へ突き進む。


ヴォルフの意識が、生命維持ポッドのバイナリの海から浮上する。網膜に直接投影されたのは、要塞の全方位カメラが捉えた絶望的な、しかし最高に「壊し甲斐のある」光景だった。


荒野の空を埋め尽くすヘリオス・エア社の重装機甲艦隊。その中心に鎮座する、旗艦『アイギス・プライム』。


「……五月蝿い羽虫どもだ」


ヴォルフの掠れた声が、要塞「アビス・アーバート」の全スピーカーから響き渡った。


「邪魔だ……。俺たちの行く手を塞ぐものは、すべて塵にしろ」


「エネルギー充填、120%超過! ヴォルフ、あなたの……いえ、私たちの怒りを、その引き金に込めて!」


エイダが叫ぶと同時に、要塞の中央デッキが左右に展開した。そこにはクリニックの「全エネルギー」と、ヴォルフの「生存本能」、そしてジンの「浄化データ」の熱量そのものを弾頭とした、規格外のレールキャノンが露わになる。


ヴォルフの咆哮と共に、黄金の閃光が夜空を貫いた。


それは、企業の「管理された呼吸」を拒絶し、泥の中から這い上がってきた者たちの咆哮そのものだった。


旗艦『アイギス・プライム』の重厚なシールドが、エイダの解析によって「紙」のように薄い論理の壁へと変換され、閃光に貫かれる。爆発は旗艦の動力炉を直撃し、夜空に二つ目の太陽が生まれたかのような大爆発を引き起こした。


燃え盛る旗艦の残骸が、雨のように荒野へ降り注ぐ。


その光に照らされ、最上層〈スカイライン〉へと続く巨大なエレベーター・シャフトの「ゲート」が、無防備にその姿をさらけ出した。


「……道は、開いたわ」


ナギがヴォルフのポッドの横で、震える手で工具を握りしめながら呟いた。



エピローグ:呼吸の先へ(Beyond the Breath)



要塞は、炎上する企業の残骸を踏み越え、真っ直ぐに上層へと続くシャフトへ向かって進み始める。


空を覆っていた重金属の雲は、旗艦の爆発による衝撃波で一時的に吹き飛ばされ、そこには見たこともないほど広大な、本物の「暗闇」と「星々」が広がっていた。


「ヴォルフ。……外を見て」


シエルが、要塞のハッチから身を乗り出し、初めて見る星空を見つめる。


ヴォルフは、修復されつつある自らの視界をその空へと向けた。


電力は残り少ない。義体はボロボロだ。


だが、もう誰も、彼らの呼吸をサブスクリプションで縛ることはできない。


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静寂の再構築(Reconstruction in Silence) @kkes

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