第5話 つなぐ手

 一年後の春。

 桜の花びらが舞う中、慎一は再び楠木家を訪れた。


 庭には、三輪車が置かれている。

 ハルさんの孫が、元気に走り回っていた。


「こら、壁を汚さないの!」


 母親が注意するが、ハルさんは笑って止めた。


「いいんだよ。子供の手跡も、この家の記憶になるんだから」


 その言葉を聞いて、慎一は胸がいっぱいになった。

 建築とは、記憶の器なのだ。


 居間で、孫が漆喰の壁にペタリと手を当てた。

 小さな手と、八十年の時を経た柱、そして新しく塗られた壁。

 それらが一つの風景として溶け合っている。


「先生、また新しい仕事をお願いしたいんです」


 ハルさんの息子が言った。


「今度は、この離れを子供部屋に改装したくて」


「喜んで」


 慎一は即答した。


 事務所に戻った慎一は、デスクに向かった。

 そこには、葛城棟梁から譲り受けた古い鏝が飾られている。

 使い込まれてすり減った鉄の刃先は、鈍い光を放っていた。


 慎一は、新しいスケッチブックを開いた。

 そして、父の形見のシャープペンシルを握る。


 カツ、カツ、カツ。


 芯が紙を叩く音が、心地よいリズムを刻む。

 頭の中に浮かんだイメージが、指先を通って、紙の上に定着していく。

 そこには、職人の手の動きも、風の通り道も、光の移ろいも、すべてが含まれている。


 スケッチを描き終えると、慎一はマウスを握った。

 カチッ。

 その音は、もう乾いた孤独な音ではなかった。

 未来を築くための、確かな第一音だった。


 画面の中の線を見つめる。

 デジタルの正確無比な直線。

 しかし、今の慎一には、その線の奥にあるものが見えていた。


 漆喰の粒子のざらつき。

 鏝が擦れる音。

 職人の息遣い。

 そして、そこに住む人々の温もり。


 画面上の線が、まるで呼吸を始めたかのように、微かに揺らいで見えた。

 それは錯覚かもしれない。

 けれど、確かにそこには「命」が宿っていた。


 窓の外では、春の風が桜を揺らしていた。

 慎一の手は、止まることなく動き続ける。


 過去から受け取ったバトンを、未来へ繋ぐために。

 触れることでしか伝えられない熱を、線に変えて。


(完)

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「その図面じゃ握手できねえ」と職人は言った。冷たいマウスを握る僕の手が、80年前の漆喰に触れて熱を取り戻すまで 木工槍鉋 @itanoma

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