第4話 時間の手

 それからの日々は、泥臭い戦いだった。


 昼は現場で鏝を握り、夜は事務所で図面を修正する。

 最初の数日は、筋肉痛で腕が上がらなかった。

 鏝を持つ右手の人差し指と親指の皮が剥け、赤く滲んだ。

 その傷に、漆喰のアルカリが容赦なく染みる。


「くそっ……痛ぇな」


 深夜の事務所で、慎一は一人、呻き声を漏らした。

 マウスを握るだけで、指先が焼けるように痛い。

 絆創膏を何重にも巻いた指は、不恰好で、思うように動かない。


「なんで、こんなことを……」


 弱音が口をついて出る。

 自分は建築家だ。職人ではない。こんなことをして何になる?

 効率的な設計、スマートなデザイン。それが自分の武器だったはずだ。

 それを捨てて、泥まみれになって、一体どこへ向かおうとしているのか。


 逃げ出したい衝動に駆られた。

 このままパソコンを閉じて、眠ってしまえば楽になる。


 しかし、目を閉じると浮かんでくるのは、あの古民家の壁だった。

 ハルさんの温かい手。

 そして、棟梁の岩のような手。


『お前さんの図面は、まだ誰とも握手してねえ』


 その言葉が、耳の奥で反響する。


 慎一は歯を食いしばり、再びマウスを握った。

 痛みは消えない。だが、その痛みこそが、自分が今、現実と向き合っている証拠のような気がした。


 ある日、現場で大きな失敗をした。

 仕上げの段階で、鏝の角を壁に当ててしまい、深い傷をつけてしまったのだ。


「馬鹿野郎!」


 棟梁の怒声が飛ぶ。

 慎一は立ち尽くした。

 謝罪の言葉も出ない。ただ、自分の不甲斐なさに打ちひしがれていた。


 その時、ハルさんがお茶を持って現れた。


「まあまあ、棟梁。そんなに怒鳴らないで」


 ハルさんは慎一に近づき、そっと手を取った。

 その手は温かく、そして驚くほど柔らかかった。


「先生の手、随分と職人さんらしくなりましたね」


 見ると、慎一の手は傷だらけで、爪の間には漆喰が入り込んでいた。

 かつての白く綺麗な手とは、似ても似つかない。


「……汚い手です」


 慎一が自嘲気味に言うと、ハルさんは首を振った。


「いいえ、働き者の手ですよ。この家のために、一生懸命になってくれている手です。私は、この手が大好きですよ」


 慎一の目頭が熱くなった。

 汚いと思っていた自分の手が、初めて誇らしく思えた。


 梅雨の湿気が肌にまとわりつく季節。

 漆喰壁の工事は、最終段階に入っていた。


「見てください、この色」


 ある朝、現場に行くと、葛城棟梁が壁を指差していた。

 塗りたての時は雪のように白かった壁が、今はほんのりとクリーム色を帯び、落ち着いた表情を見せている。


「乾いていく過程で、色が落ち着くんです。これが『馴染む』ってことです」


 慎一は壁に触れた。

 以前の湿り気は消え、サラリとした感触に変わっている。

 しかし、冷たくはない。

 空気の層を含んでいるような、柔らかな温かみ。


「漆喰は呼吸してますからね。湿気を吸って、吐いて。そうやって、家の中の空気を守ってくれるんです」


 棟梁の言葉に、慎一は深く頷いた。

 時間は、時計の針のように均等に刻まれるものではない。

 この壁の中で、湿気が吸われ、吐き出されるたびに、質的な時間が蓄積されていく。

 それは劣化ではなく、成熟だ。


「先生、ここを見て」


 棟梁が指差したのは、窓際のコーナー部分だった。

 そこには、慎一が苦心して設計した、わずかなアール(曲線)が施されていた。

 光が当たると、柔らかな陰影が生まれ、壁の表情が豊かになる。


「このアールのおかげで、鏝がスムーズに回りました。いい納まりです」


「……本当ですか?」


「ああ。あんたの手、少しは職人の手に近づいたな」


 棟梁のゴツゴツした手が、慎一の肩を叩いた。

 その重みと温かさが、作業着越しに伝わってくる。

 慎一は、涙が出そうになるのを必死で堪えた。

 剥けた指先の痛みが、今は勲章のように感じられた。


 秋風が吹き始める頃、改修工事は完了した。

 庭の金木犀の香りが、新しくなった家の中にも漂ってくる。


 引き渡しの日。

 ハルさんは、生まれ変わった家を見て、言葉を失っていた。

 古い柱や梁はそのままに、壁は美しく塗り直され、光と風が通り抜ける空間。


「……ああ、風が通るわ」


 ハルさんが縁側に座り、目を細めた。

 その横顔は、少女のように穏やかだった。


「先生、ありがとうございます。家が喜んでいます」


 慎一は首を振った。


「いえ、僕が教わったんです。この家と、棟梁と、ハルさんに」

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