第5話 手

 「そんなことを気にして、やめてしまうんですか?」

 延苗のぶみつの腕のなかには女の肉体の感覚があった。

 ふしぎな女だ。

 一つの体のなかに、一つの魂のなかに、子どもみたいなところと大人らしいところが同居している。子どものように好奇心たっぷりなのに、そこらの大人ができないくらいの気配りも見せる。茶色っぽい目をくりくりさせて小さい子どもみたいだが、その体から感じる弾力は立派な大人の女のものだ。

 「世のなかのみんながペンで書かなくなったからって、先生には関係ないじゃないですか」

 とがめるように、ではない。

 甘えるように、でもない。

 普通にいえば「ドライな言いかた」ということになるのだろう。でも、この女のそんな声には溌剌はつらつとしたつやがあふれていた。

 「そんなこと言うけどさ」

 延苗はぞんざいに言った。

 でも、その先が思いつかない。

 何を言っても女には見透かされる。

 延苗が自分で気づいていないことまで。

 だから、言うかわりに、背中から回した手の先、女の脇腹にあたっている指を、人差し指から小指へと順番に動かして、優しく叩いた。

 その体の、硬いとも柔らかいとも言えない感覚。

 手のひらに感じる、冷たさが入り混じった温かさ。

 肌着もその上に着ているものも木綿だという、その布の手触り。

 「そうですよ」

 女は物憂げにそう言うと、自分の左手を延苗の右手のうえに重ねてきた。

 「これだけのことができる右手じゃないですか。この手でじかにお話を書くんじゃなくて、機械を通してから書くなんて、さみしいな」

 驚いた。

 この女が、「さみしい」なんてはっきり言う。

 それも、抑揚をつけて感情を表して言うなんて、珍しい。

 「いや、そうは言うけど」

 延苗が弁解しようとし、でも、ためらった。

 弁解なんてするものではない、と思ったからだ。

 その短いためらいのあいだに、女の体の感覚はすっと消え去った。

 目の前がふわっと明るくなり、柔らかい朱色に染まる。

 「ああ」

 夢なのか。

 思い出がよみがえったのか。

 江ノ島近くの店で知り合ったあの女はもういない。

 突然、大学に行くことに決めた、と言って姿を消したらしい。

 この女とは肉体関係はなかった。肉体の関係というと、ただああやって抱いて、体を撫でてやったりしただけだ。

 それなのに、妻は不倫を疑って去ってしまった。

 後悔はない。

 ない、が。

 延苗は、居眠りしていたあいだにだらんと垂れていた右手を目の前に持って来て、中途半端に開く。

 見つめる。

 この手で仕事をし、この手で女を抱き。

 それももう思い出だ。

 やっぱり老いたのか、と、長くため息をつく。

 息が尽きそうになったところで、はっ、とした。

 『享徳きょうとく』でもの足りなかったもの。

 それを思いついた。

 女だ。

 たしかに、小説を書くのには慣れていない道具で書いた、つまりパソコンで書いた、ということはあるだろう。

 いや、それもあって、だ。

 女が出て来なかった。

 出そうということも思いつかなかった。

 新しい道具で書いている、ということばっかり考え、思いをめぐらせている余裕がなかったのだ。

 もともと享徳の乱の記録には女性はほとんど出て来ない。『八犬伝』から借りるのも難しかった。悪女であっても貞女ていじょであっても、極楽ごくらく延苗の小説にはぴったりとはまってくれない。

 最盛期の延苗ならば、史料のなかに一‐二度名が現れるだけの女を大きくふくらませて絡ませ、物語を盛り上げるということができた。

 その要素が欠けていたのが、何度も何度もつっかえた原因だった。

 「やっぱり、歳を取ったんだな」

 でも、その独り言を口に出した延苗は、さっきまでの、意気消沈した、物思いに沈んだ延苗ではなかった。

 次は三国志ものを書く。そう宣言した。

 さっき帰って行った誠正せいせいしゃ内村うちむらおさむは、今度は「中原ちゅうげん」の物語だ、と言った。

 中原と言えば、果てしない平野が広がる地。

 古くから文明が栄え、漢、魏、しんのような王朝が興亡した地。

 そこを、女一人に視点を据えて、書いてやる。

 具体的にだれ、ということはすぐに思いついた。

 歴史書ではなく小説の『三国志演義』には、あでやかに登場し、英雄悪漢たちを翻弄し破滅させながら、ほぼその物語だけで消えてしまう貂蝉ちょうせんという若い娘が登場する。

 この女を中心に、三国の物語を描いたらどうなるか。

 最初の歴史小説『華陽かよう夢譚むたん』を書いたときに調べたことを思い出す。

 その事件のとき、この貂蝉が満年齢で十五歳だったとすれば、生まれたのはまだいちおう平和だった時代のはずだ。十歳頃に「黄巾こうきんの乱」という大乱に遭遇する。一方で、その事件後まで生き残ったとすると、後漢ごかんの王朝が滅亡して三国の時代に入ったときには四十歳台だ。生きていたならその事件も見届けたに違いない。

 どこで見届けたかは、これから考えよう。

 書ける。

 いままでとは違う三国の大河物語が。

 延苗は大きくため息をついた。

 二度とつけないほど、大きくため息をついた。

 立ち上がる。

 後ろの本棚の目よりちょっと高い段。

 そこに二百字詰めの原稿用紙が置いてある。

 何年も使っていなかった原稿用紙五十枚綴り。

 それを、ばさっ、と音をさせて、机の上に置く。

 あらためて椅子に座り直した。じいさん、いや、父親が、延苗が生まれる前から使い続けていたという堅牢けんろうな椅子だ。

 もうためらいもなかった。引き出しのいちばん上の段を引き開ける。

 ペン皿の上に、ちょこん、と、少し斜めになって、誇り高く、盟友「驕児きょうじ」は居すわっていた。

 使い込んだのに、そのプラスチックのペン軸はいまもなめらかな輝きを失っていない。

 いつもやっていたように、延苗はその万年筆を軽く持ち上げて、原稿用紙の綴りの上に置く。

 構想も何も、まだない。調べもまだやっていない。だいたい、ずっと使っていなかったペンだ。書き始める前に手入れをしてインクを補充する必要もある。

 だから、本格的に書き出すのはもう少し先だ。

 この手にこの愛用のペンを握って、物語の広大な空間のどこへ行こうか。

 物語をどこへ連れて行こうか。

 しばらく感じていなかった感覚に胸を躍らせながら、延苗はまた椅子に腰を下ろして、また、そっと目を閉じた。


 (終)

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驕児 清瀬 六朗 @r_kiyose

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