第4話 編集者
でも。
もう、いい、と思った。
いまさら三国志ものの長篇でもないだろう。
あの辛口批評が言っていたとおりだ。
もうじゅうぶんに歳なのだ。
金なら、もう十分すぎるほど稼いだ。湯水のように使って遊ぶこともしないので、たまる一方だ。
そろそろ引退して、「後進」というやつらに道を譲るべきだろう。
道、というより、出版業の厳しい状況を反映してページ数が激減した雑誌のページを。
そこで、その誠正社に、次の新作のオファーは辞退する、どこか別の出版社に出すのではない、ものを書くのはすっぱりやめる、と、メールというものを書いて送った。
慌てたのだろう。
誠正社は編集の男を一人寄越してきた。
前に誠正社の雑誌に一年ほど歴史エッセイを連載したときに担当してくれた、丸顔の無邪気な雰囲気の男だ。名は
あれから何年か経っていたけれど、ぜんぜん雰囲気は変わっていなかった。顔がちょっと日焼けしたかな、という程度だ。
招き入れて、一階の、執筆に使っていた部屋で話をした。
「もう書かない」という決意を表そうと、机の上は片づけて、本も資料も置いていない状態にした。
机の角をはさんで、たがいに相手を斜めに見る位置に座って、話す。
延苗は、正直に、できるだけ感情を交えないようにして、言った。
もう前のようには書けない。
書く情熱もなくなってきた。
それに、また三国志ものと言っても、何が書けるか、
丸顔の無邪気な編集者内村修は、
「先生はまだまだ書けますよ」
とも言わず、
「弱気なことは言わないでください」
とも言わずに、最後まで微笑をたたえたまま黙って聞いていた。ときどき、同意なのか、ただ調子を合わせているだけなのか、軽くうなずくだけだった。
これで、終わった。
自分は、この男に洗いざらい話して、らくになりたかったのだろうか。
それとも、励ましてもらいたかったのだろうか。
わからない。
もう書く気はない。それは、この男が励ましてくれたとしても、変わらない。
そして、最後に言うつもりだった。
「もう、その限られた
と。
ところが、話を最後まで聞いた、いまはもう三十を超えたであろう、それでも若い編集者は、話を聞いてしまうと、ぽろっ、と言った。
「もしかして、先生は、いまの時代に手書きで原稿を出されることを気にしておられるのではありませんか?」
衝動に駆られた。
詰め寄って、なんでわかるんだ、と、問い詰めたい
でも、今日は、穏やかに話したい。
一生に一度しかない「もの書き業からの引退」の瞬間だ。
たいせつにしたい。
だから、声を低くして、延苗はわざとぞんざいに言う。
「それはそうだよ。手書きの原稿を渡されても、会社で打ち直して、ワープロで原稿を入れるんだろ? おれの書くものは長い。いまの出版の状況だ。そんな労力と時間を出版社にかけさせるなんて。だから、な」
そう、声を
名演だと、自分で思った。
ところが。
「いやいや。それがぜんぜん違って、ですね」
と、内村という編集の男は、へらへらと言った。
怒りが湧く。
湧きかける。
一世一代、この
だが、そんな延苗の思いにはかまわず、内村修は延苗の目の前に自分で持参したタブレットとか言うものをぐいと突き出した。
何かが表示されている。
手書き原稿だ。
だが、明らかに延苗のものではない。
「これ、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」って童話の原稿のコピーなんですけどね」
延苗は混乱する。
宮沢賢治は、知ってはいるけど、まるで縁のない作家だ。
なぜ。
その原稿を?
「まあ、見てください」
と、そんな延苗の様子にはかまわず、内村修は話を続ける。
「手書き原稿としてはそんなに読みにくいほうではないと思いますけど、「レンズ」の「レ」がひらがなの「し」と区別がつきにくかったり」
と、内村修はペン
「あと、この「こ」とか、数字の「2」と区別がつかない。そうでしょう?」
「ああ」
何を言われているかはわかっても、内村修が何を言いたいのからないまま、延苗はうなずく。
「それに、「銀河鉄道の夜」は、清書した原稿がなくて、草稿の段階で残ってますから、こんなふうに」
と内村修は画面を大きく動かした。
新しく出て来た部分を見せながら、説明する。
「大きくバツで消してあったり、線を引いて消してあったり、しかも線が完全に消す字にかぶっていなかったり、っていうのがあるわけです。直そうとして、途中でやめたところとかもありますしね」
「おお」
やっぱり、言っていることはわかるが、言いたいことがわからない。
「それで?」
「ところがですね、これを」
と、内村修はその原稿の画面を閉じる。画面は小さな四角い印になった。「アイコン」とか言うらしい。
別の画面を開いて、さっきの「アイコン」をその画面にすーっと引っぱって来る。
画面にその「アイコン」がすとんと落ちると、画面には時計が回るような表示が出た。
これだったら、知っている。
パソコンが動かなくなったときに、画面によく表示される、「いらいらするマーク」だ。
しかし、いらいらするほど待たされはしなかった。
たぶん、一分もかからなかっただろう。
見てみると、画面には、整然と活字が並んでいた。
「どうです?」
「どうです、ったって」
と内村修の顔を見上げた延苗に、内村修はにっこり笑って見せた。
とてもかわいらしく、子どものように。
「ぼくはよくわからないんですが、これで、校訂のしっかりしたいちばん新しい全集の本文とほとんど変わらないそうです」
「つまり、その」
延苗は言いよどむ。
「パソコンが、っていうか、機械が、ひとりでに原稿を読み取って活字にしてくれる、っていうのかい?」
「そうです」
と内村修は、明るい声で言った。
「だから、これまでどおり、先生は原稿用紙に手書きの原稿を出してくださればいいんです。これまでと、何も変わりません」
しばらく待って、続ける。
明るい、表情のない声で。
「三国志ものとなると『
また、ちょっと、ことばを切った。
延苗は何も言わず、不穏げに編集者の顔をにらみ返している。
この若い編集者はまったくこたえないらしい。
「先生もお書きになりたいんじゃありませんか? もちろん、読者も待望してますし」
そこまで言って、黙る。
でも、両目はじっと延苗の目から逸らさない。
にらみ合いだ。
目を
犬猫の
何に負けるのかわからないが、ともかく、負ける。
延苗は、ふ、と息をついた。
「それでも、一度はやめると決めたんだ」
重々しく言う。
「考えさせてくれ」
そう言って切り抜けるしかなかった。
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