ソープでカキなよ

雨光

激熱予兆の保留ランプ点灯

俺が勤めていた病院が買収された。


それはある日突然、隕石が落ちてきたような話じゃない。


パチンコで言うなら、数ヶ月前からとっくに「激アツ」の演出は始まっていたのだ。


保留玉は真っ赤に点滅し、筐体はガタガタと震えている。


病棟のナースステーションでは「この病院、マジでやばいらしいよ」「〇〇先生、今月でドロンだって」なんて噂が飛び交う。


実際、医局長を含め数人の医者が、沈みゆく船からネズミが逃げ出すような速さで辞めていった。


医者がいなけりゃ病院なんてただの巨大な公民館だ。


救急も、外来も、急性期の受け入れもストップ。


病院としての機能不全。俺の中のリスク管理センサーも、警報音を鳴らして「ここから離脱せよ!」と叫んでいた。


だが不思議なもので、俺の中にはもう一人、破滅的なギャンブラーが住み着いている。


「ここまで崩壊する様を特等席で見届けるのも一興じゃないか」


なんて、ニヤニヤしながら囁いてくるのだ。


そして、その日は来た。


保留玉の演出が確定した瞬間だ。


「えー、当院はグループ病院として再編されることになりました」


全体朝礼での院長の言葉。


理由は後継者不足だという。


いや、知らねーよ。


だったらもっと早く言えよジジィ。


俺の心の叫びは、その場にいた全職員の総意だったはずだ。


そこからの展開は早かった。


数日後、事務長が新しい事務長を連れてきて「紹介します、こちらが――」と頭を下げる。


いや、お前はどうなんだよ。


気まずさのあまり俺の心拍数が上がる。


結局、前の事務長は「次長」という、何をするのか誰も知らない謎のポジションに収まった。


総務も経理も、主要なポストの首が次々とすげ替えられていく。


一兵卒の管理栄養士である俺には、役職なんて関係ない。


高みの見物を決め込んでいた。


だが、買収先はそこそこデカイ組織だったらしい。


今までのような牧歌的な、「なんとなく」で許されていた業務は通用しなくなった。


医療とは何か、組織とは何か。


根本から叩き直される日々が始まった。


ある日のことだ。


カルテに向かっていつものように記録を打ち込んでいると、買収先のグループから送り込まれてきた女性スタッフが、俺の背後から声をかけてきた。


「ねえ、それソープで書いたほうがいいよ」


俺の肩がビクッと跳ねる。


今、なんて言った?


ソープ?そーぷ?


あの、お風呂の?泡の国?


いや、待て待て俺。


職場で、しかも初対面に近い女性がそんな単語を口にするはずがない。


何を考えているんだ俺は。


このスケベ脳が。


ほんの0.5秒の沈黙。


その間に俺の脳内CPUはオーバーヒート寸前まで回転し記憶の引き出しをひっくり返す。


ソープ、SOAP……。


あ、S.O.A.Pか。


Subjective(主観)

Objective(客観)

Assessment(評価)

Plan(計画)


医療記録の基本フォーマットのことだ。


「あ、はい。次からそれで記入しますね」


平静を装って答えたが、脇の下には冷や汗が流れていた。


危ないところだった。


「え、吉原ですか?」なんて聞き返していたら、俺の社会人人生こそが買収される前に終了していた。


それ以来、俺の自由奔放だったカルテ記載はカチッとした型にはめられることになった。


最初は窮屈で仕方なかったが、慣れてくるとこれが悪くない。


何も考えずに型に流し込めばそれなりの記録が出来上がる。


今までちゃんとした病院にいなかったから知らなかったがマニュアル通りに動くというのはある種の思考停止が許される楽園なのかもしれない。


管理されることへの妙な安心感を覚えながら、俺は今日もまた、ソープで書いている。

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ソープでカキなよ 雨光 @yuko718

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