手が紡ぐ、ひと皿の幸福

佐倉井 鱓

焼きたての香りと、あなたの笑顔

早朝の『喫茶 桜』は、まだ客の気配も薄く

湯気と静寂だけが店内を満たしていた。


カウンター奥のキッチンに立つ櫻塚さくらづか 時也ときや

藍色の着物袖を襷紐たすきひもで纏め上げ

粉の袋をそっと抱き寄せる。


薄力粉と強力粉をふるいにかけるたび

白い粉雪がボウルの中にひらひらと舞い落ちた。


さらさら、と金属に触れる粉の音が

静かな朝の鼓動になる。


時也は指先で

ふるわれた粉の表面を一度だけ撫でた。


たっぷり含まれた

空気の柔らかさを確かめるように。


「……はい。今日も、よろしくお願いしますね」


誰にともなく、穏やかな声が零れる。


粉とバターと林檎に──

これから一つの菓子に生まれ変わる

すべてに向けた挨拶だった。


冷蔵庫から取り出したのは

よく冷えたバターの塊。


ナイフで薄く四角く切り分けると

淡い黄の小片が、雪原に散らした落ち葉のように

粉の上に点々と広がる。


ヘラの先で、ざっくりと切り混ぜる。


粉とバターが重なり合い

〝さらさら〟から〝ざくざく〟へ──

手触りの音が変わっていく。


やがて時也はヘラを置き

両の指先をそっと粉の中に沈めた。


冷たい。


指の腹に触れるバターはまだ硬く

角を残している。


それを潰しきらないよう

しかし確実に細かく砕いていく。


指先でつまみ、擦り合わせ

粉を纏ったバターを薄い鱗のように崩していく。


さらさら、ざくざく、ほろほろ──


音が少しずつ変わるたび

生地はパイに相応しい

〝層〟の気配を帯びていく。


(潰し過ぎると

ただのクッキーになってしまいますからね……)


そう心の中で微笑みながら

時也は指先の動きだけを研ぎ澄ます。


冷水と、ひとかけらの塩。

そこに、ほんの少しだけ砂糖を溶かした。


甘さではなく、香りの土台を支えるための

目には見えない下支え。


その水を

様子を見ながら少しずつ落としていく。


粉が、急に呼吸を始める。


乾いた粒子の集合だったものが

水を得て、ゆっくりと互いを掴み合い

小さくまとまり始める。


まだ練らない。

押し付けない。


ただ、ひとつに寄り添える程度の力で

掌を使い、静かにまとめ上げる。


生地の表面はまだ荒く

バターの小さな塊が、まだらに点在している。


──それがいいのだ。


後の焼き上がり

そこが層となり、空気を抱き込み

サクサクと崩れるパイ生地になる。


「ふふ……

少し、贅沢なくらいに、バターを残しましたね」


生地を平たく押し広げ

ラップに包んで冷蔵庫へ。


ひと息つくように扉が閉まり

冷気の中で、粉とバターと水が

ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。


その間に、キッチンには別の香りが立ち始めた。


甘く、柔らかく、どこか懐かしい──

林檎の香り。


まな板の上には

艶やかな赤と黄を帯びた林檎が山を作っている。


時也は新しく一本、ナイフを引き抜いた。


刃が林檎の皮に触れた瞬間

淡い張りつめた音が鳴る。


しゃりっ──


リズムは一定。


皮は長い一本のリボンになって

くるくるとまな板の端に降り積もる。


瑞々しい白い果肉が露わになると

キッチンの空気は一層甘く満ちていく。


薄く、均一にスライスする。


透けるほどの薄さではなく

歯を立てたときに、かすかな抵抗と

次にやってくる、ほろりとほどける食感

その両方を約束してくれる程度の厚み。


切り終えた林檎をボウルに移し

レモンをひと搾り。


きゅ、と絞った指から、柑橘の鋭い香りが走り

それが林檎の甘さと混じって

鼻腔の奥にくっきりとした輪郭を描く。


そこに、砂糖をたっぷりと降らせた。


白い結晶が

果肉の上に、しんしんと降り積もっていく。


シナモンを、ひと振り。


香りは慎ましく

しかし確かに存在を主張する量で。


ナツメグをほんの少し。

そして、バニラエッセンスを一滴だけ落とした。


林檎たちは、砂糖と香辛料をまとううちに

やがて自らの水分で輝き始める。


時也は鍋を温め、そこへバターを落とした。


熱せられた鉄に触れたバターが

じゅ、と短く息を吐き

すぐに黄金色の泡を一面に広げていく。


その中に、マリネされて艶を帯びた

林檎のスライスを滑り込ませた。


じゅわっ──


さきほどまで静かだったキッチンが

一度に甘いざわめきに包まれる。


立ち上る蒸気は

溶けた砂糖とバターの香りをまとい

シナモンとリンゴの匂いと絡まり合って

喫茶 桜の厨房の天井へとゆっくり昇っていく。


木べらで丁寧に混ぜるたび

林檎の色が、わずかに透明を増していく。


かつての生の白さは影を潜め

代わりに淡い琥珀色の艶が

その表面に宿り始める。


「……焦らせてしまっては、いけませんね」


時也は火を弱めた。


林檎に自らの水分を差し出す時間を与えるように

ゆっくり、ゆっくりと火を通していく。


やがて鍋の底には

とろりとしたシロップが溜まり始めた。


溶けた砂糖と林檎の果汁

バターとスパイス

そのすべてが混じり合った──琥珀色の泉。


木べらで掬えば

重たく、なめらかな糸を引きながら

ぽたりと落ちる。


(これだけで、パンに塗っても……

皆さん、喜ばれそうですね)


そんな想像が脳裏をかすめ

時也の口元に静かな笑みが浮かぶ。


林檎にしっかりと火が通り

しかし形はまだ崩れていない。


噛めば果肉の名残が感じられ、飲み込む瞬間に

舌の上でほろりとほどけていく

その寸前の柔らかさ。


火を止める。


冷める間にも、余熱がゆっくりと林檎に染み込み

甘さと香りを深めていく。


冷蔵庫の扉を開けると

先ほど仕込んだ生地が静かに待っていた。


表面はひんやりとしながらも、指先で押せば

かすかに受け止めてくれる

柔らかさを残している。


打ち粉を振った台の上に生地を置き

麺棒を当てる。


きし、と短く鳴って、伸ばされていく。


麺棒が往復するたび

生地の中に封じ込められたバターの薄片が押され

折り重なり、ひとつ、またひとつと

層の階段を形づくっていく。


伸ばしては折り、伸ばしては折り──


単調な作業のようでいて

その実、ひとつひとつの手付きが

焼き上がりの食感を左右する。


層の数を数えるように

時也は丁寧に、しかし迷いなく手を動かす。


やがて、円形のパイ皿に

ふさわしい薄さと大きさになった頃合いで

生地は艶やかな面をこちらに向けていた。


そっと持ち上げ、パイ皿に敷き込む。


生地の端を指先で押しあてるたび

陶器と生地の間に、空気の逃げ場が生まれる。


それが、焼き上がりの浮力になる。


冷ましておいた林檎を、たっぷりと敷き詰める。


それはもはや〝詰める〟というより

〝溢れさせる直前で、ぎりぎり堰き止める〟

といった方が近い量だった。


ひと山、またひと山と重なり

パイ皿の中央には、琥珀色の小さな丘が現れる。


林檎の隙間からは

煮詰められたシロップが光を反射し

ゆっくりと、谷へと流れ落ちていく。


「少し……盛りすぎましたかね」


言葉とは裏腹に、その眼差しは満足げだ。


残りの生地を細長く伸ばし、帯状に切り分ける。


それらを一本ずつ

林檎の丘の上に渡し、格子状に編み上げていく。


縦と横、順番に重なり合う生地の帯は

まるで桜の枝と枝が交差し合って

花を支える骨組みのようだ。


縁を指でつまみ、装飾のようにひだを刻む。


最後に、表面に艶を与えるため

溶き卵を刷毛でそっと塗った。


卵液が光の薄い皮膜となり

生地の上に柔らかな光沢を宿す。


仕上げに

ほんの少しだけグラニュー糖を振りかける。


焼き上がりに、それが小さな結晶となって

表面に甘いきらめきを残すことを

時也はよく知っている。


余熱を終えたオーブンの口が

橙色の熱を孕んで開いている。


パイ皿をそっと滑り込ませ、扉を閉めた瞬間

世界は一度、密やかな闇に包まれた。


そして──待つ時間が始まる。


やがて、キッチンの空気が変わる。


最初に立ち上がるのは

溶けたバターと小麦が出会う香り。


香ばしさの手前

まだ柔らかさを残した、焼き始めの甘い匂い。


それが徐々に熱を帯び、リンゴの蒸気を纏い

シナモンと砂糖の香りを引き連れて

オーブンの隙間から

居住スペースへとゆっくり侵入していく。


数分もすれば、喫茶 桜の中は

ほとんど目に見えそうなほど

濃厚な甘い空気で満たされていた。


扉の向こうから、小さな足音が聞こえてくる。


「時也さーん!なんか、甘い匂いがするね!」


「ふふ。もう──バレてしまいましたか」


時也はオーブンの前で微笑む。

タイマーが鳴るまで、あと数分。


その数分が

どれほど長く、どれほど甘い拷問であるかを

彼自身もよく知っている。


やがて、軽やかな電子音が鳴った。


扉を開けた瞬間

焼きたての熱気が、爆ぜるように溢れ出す。


パイは、黄金色だった。


格子状の生地の高いところは

こんがりとした狐色に。


谷間の部分は、少し柔らかな金色に。


表面に散らした砂糖はところどころで溶け

細かな飴の結晶となって光を弾いている。


格子の隙間から覗く林檎は

煮詰められたシロップと一体となりながら

まだ果肉の輪郭を保っている。


熱で立ち上る蒸気は

林檎とバターとシナモンの香りを

容赦なく鼻腔へと叩き込んでくる。


思わず唾を飲み込みたくなるほどの

濃密な甘い香り。


「うわぁ……!」


「おい……これ、全部、客たちのだけかよ?」


「いえいえ。

皆さんの分も、ちゃんとございますよ。

……ただ、焼きたては、熱いので。

少しだけ、待っていてくださいね」


そう言いながら、自分自身の喉奥も

かすかに鳴るのを感じている。


ナイフを入れるとき

表面のパイ生地が、さくりと小気味よく割れた。


刃が格子を割り、層を通り抜けるたび

小さな破片が

皿の上にほろほろと降り積もっていく。


中からは

とろりと煮詰まった林檎が顔を覗かせた。


熱気と共に、さらに濃くなった香りが

目の前の空気を揺らす。


ひと切れを皿に移すと

パイの断面には、美しい層が

幾重にも重なっていた。


サクサクとした生地の間に

しっとりとした層があり

その下には、琥珀色の林檎が

みっしりと詰まっている。


フォークを入れると、上の生地が軽く砕け

その下から、とろりとした果肉が顔を出した。


「いただきます。⋯⋯作り手の、特権ですね」


時也はフォークを口に運ぶ。


最初に舌を撫でるのは

パイ生地の軽やかな塩気と、香ばしさ。


次にやってくるのは、リンゴの甘酸っぱさと

じっくり煮詰められた果汁の濃厚な甘み。


熱い。


だが、熱さの中にある甘さは

冷めた菓子には決して宿らない

刹那の贅沢だった。


サク、と歯が生地を割り

ほろりと果肉がほどけるたび

バターと砂糖とスパイスの香りが

喉の奥へと流れ込んでいく。


(……これは、少し、反則ですね)


胸の内でそう呟きながら

時也は小さく目を細めた。


キッチンの外では、待ちきれない足音と

「まだか?」という声がいくつも重なっている。


「お待たせいたしました。

それでは皆さん──焼きたてのアップルパイを

どうぞ、召し上がってください」


その声と共に、皿がひとつずつ渡されていく。


生地を捏ねた手。

バターを刻んだ手。


林檎を薄く削ぎ

鍋をかき混ぜ

熱を見極め


最後にそっと、皿を差し出す手。


そのすべての軌跡が

一片のパイに重なっている。


ぴたりと触れ合った掌から掌へ

小さな温もりが受け渡されていくたび

焼きたての甘い香りと一緒に

目に見えない何かがふわりと広がる。


笑い声が生まれる。

安堵の息が漏れる。


〝美味しい〟という一言が

指先から指先へ

静かな祝福のように連なっていく。


今日もまた、この手は

ただ食卓の上に

これからの客席に

ひと皿の菓子を載せただけだ。


けれど──


粉をまみれにし

熱を測り

誰かを想って


動いたその手が生み出しているのは

確かにひとつの祈りと幸福だった。





✿*❀٭✿*❀٭✿*❀٭✿*❀٭✿*❀٭✿*❀٭



厨房でのひとときにお付き合いくださり

心から、ありがとうございます!


これを読んだ後

これから、あなた様の前にあらわれるひと皿に


込められた想いと願い


それが、渡すその手に込められているのかを

改めて感じてくだされば幸いです(*´︶`*)ノ🌸



喫茶 桜──


悩みを心に浮かべただけで解決する

桜の丘の上にある不思議な喫茶店


良ければ

こちらも併せてお読みくださると

なお、嬉しく思います



紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜

https://kakuyomu.jp/works/16818622175686771533



喫茶 桜への

皆さまのご来店を──


心より、お待ちしております🌸

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

手が紡ぐ、ひと皿の幸福 佐倉井 鱓 @Tail_of_Moray

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画