神功皇后幻想 弐 ー旅立ちー

@pane_melone

第1話 この胸に熾る火よ

 海を吹きわたった級長戸辺神しなとべのかみが、楼閣たかどのの幟をあざやかにはためかせて去っていく。

 綿津見わたつみの宮をくがに押しあげたと口々に誉めそやされるその楼閣たかどのは、笥飯宮けひのみや仲津日子大王なかつひこのおおきみみめである、虚空津比売そらつひめ宮処みやどころである。

 ほっそりとした三つ重ねの楼閣を取り巻くように、くらたちが建ち並ぶ。そのあいだの道を、大きな荷を担いだ荷運びや、小ぶりながらも勾玉を下げ、伽耶ふうの髪を結った洒落者などが行き交って、にぎにぎしいみなとの姿が形づくられていた。

 もうすぐ新嘗にいなめの祭。この秋に稔った米をたらふく食って、豊穣を祝う、飽き食ひの祭だ。それが過ぎれば、空気はどんどん冴えてゆき、やがて、雪がちらつき始める。こしほどではないが、冬も押し詰まれば、膝ほどまでの深さに雪が積もる。冬越しの備えにも気が逸る頃合いだ。


 虚空津比売そらつひめは、楼閣たかどのの足元に集う館のひとつで、砂溜すなだめを挟んで八並やつなみと積み出しの荷について講釈を聞いていた。

 八並は、よわい三十路半ばで挾杪者かじとり大率おおそちに抜擢された男だ。根っからの船乗りで、陸は揺れないから気持ちが悪いとうそぶく始末。陽射しに鞣された肌の頬にも腕にも、鯨文いれずみを施している。髪はうねうねとした和布わかめのようで、縛った紐が切れると云って、被髪にしている。

「最終的な目的は、伽耶のくろがねから白銅鏡ますみのかがみ、これをどれだけ多く交換ひきかえられるかなんですわ」

 八並は、砂溜に描いた絵図のひとところを棒で示した。

「倭は大八洲おおやしまといい、幾つもの嶋が寄り集まっていますが、出雲でも竺紫でも、なぜかあまり鉄がとれない。全く採れないわけじゃありませんが、海向こうの伽耶で産する量に比べればわずかだ。くろがねは、いくさだけじゃない、森を拓くにも、田を鋤くにも、なんにでも使いますからな。誰だって、どれだけだって欲しい。そして、」

 と云って、また異なる箇所を棒で示して、大きく丸を描く。

「伽耶であれからであれ、西の大陸おおくがで多くのものとひきかえられるのが、翡翠玉ひすいのたまや白珠です。玉は、越でしか採れません。」

 その美しさから、誰もが喉から手が出るほど欲しがる玉。彼の地には、その玉が流れをなすの川があると伝え聞いている。

「ふむ……越で必要なものは、なんだろうな」

「玉以外の財ですな」

 さらりと云い放ち、次いで、わはは、と八並は笑った。虚空津比売がねめつけると笑いをおさめて、

「まあ、いろいろでございますよ、比売。玉やくろがねってのは別格ですが、木の材でも石の材でもある土地で余っているものを、足りぬところに持っていくことで交易は成り立つんです。我が息長は丹波の管玉、淡海の米、辰砂にあか須恵器すえのうつはものなんて様々のものを産物として持っておりますから、これを運ぶのが常套。あとは、落ち着いて相手の肚の内をみることですな」

「どういうことだ?」

「どちらも少ない元手で多くのものを得たい。だから、はったりなど当たり前。よい落としどころはどこか探るのです。そして、損をさせぬことです。」

「損を、させぬ・・・?」

「足元をみて損な取引をごり押しすれば、怨みを残し、二度とその相手とは取引できませぬ。お互いに損をせぬ気持ちよい取引をすれば、また来い、よいものを準備しておくからと云われる。そのような、関係を築くのです」

「・・・・わかるような、だが、難しいな」

 呵々と、八並は笑った。躰つきも大ぶりだが、口も大きい。鰐のように上下にぱっくりと開く。

「その辺は、我らに任せてもらえばいいんですよ」

「・・・そういうことだな」

 絵図を見ながら、虚空津比売はまだ見ぬこしや出雲、竺紫、伽耶に思いを馳せたが、具体的なすがたは結べなかった。大王の妃となり、息長筋からは角鹿を任される身となったが、ますます、わだつみを越えてつ国を見ることは叶わなくなっている。

 虚空津比売はおのれの鳩尾みぞおちに掌をあてた。

 ちりちりと、身を焼く埋火うずみびのようなもの。

 それがまだ確かに胃の腑のあたりでさかっている。そう唇を噛んだとき、

「虚空津比売様、お客様でございますけど。」

 下枝の声が、虚空津比売を現つに引き戻した。戸口に立ち、風除けに

 垂らしたとばりをかかげて、こちらを窺っている。

「客?」

 問い返すと、下枝は虚空津比売に歩み寄り、膝をついて声を低めた。

「はい、忍んでこられたようです。ご案内してもよろしゅうございますか」

「客が誰かわからなければ、諾も否もないだろう」

 云うと、下枝は、ちらりと八並を見やる。虚空津比売は、構わぬ、と促す。

武内宿禰たけしうちのすくね様です」

ひこじの君からのお遣いとあれば外さねばならんですなあ!」

 下枝はやかましそうに眉をしかめた。

「八並どの、船の上じゃありませんからそんな大声はやめてください!柱や梁が震えて崩れます!」

 八並は意に介さず、またも大口を開けて笑った。

 虚空津比売は、歯を剥きそうな下枝をなだめ、

「下枝、武内宿禰どのをお通ししてくれ。八並は、会うのは初めてだろう、挨拶するといい」

 と云い、砂溜の絵図を消すよう、手で示した。

 八並は竹を束ねた箒でざざと砂を撫で、絵図を崩すと、奥の壁沿いに座を移した。

 武内宿禰は近くの棟で待ってていたのだろう。ほどなく下枝の先導を受けて戸口に姿をみせた。冷たい風が男と共に入り込んだ。

「ご無沙汰しております、虚空津比売様。御息災であられましたか」

 武内宿禰は、旅装束ではあるものの、髭もびんも乱れなく、大王の輔弼ほひつらしい、ゆったりした振る舞いで、虚空津比売の真向かいにしつらえられた円座に腰をおちつけた。

 虚空津比売はその姿に苦笑し、胡坐の膝に頬杖をついて、

「久しぶりだ、が、おまえは変わらないな。初めて会ったときを思い出したぞ」

「虚空津比売様はますますお美しくなられました」

 それを世辞ととらえたか、虚空津比売は軽く鼻で笑い、下枝に温かい飲み物を持ってくるように命じた。

「この前お訪ねしたのは昨年さきのとしの夏でしたが、笥飯宮の整いようは目覚ましいものがありますな。淡海おうみからの山越えも、駅家うまやを置かれたおかげで楽をさせてもらいました」

「ああ、長い道程みちのりには、落ちついて寝めるところがあったほうがいいからな。宿禰どの、こちらにいるのは、八並といって、角鹿の挾杪者かじとり大率おおそちだ」

「八並と申します」

 野太い声音が、びん、と柱や壁をふるわせた。

 武内宿禰は、躰をそちらにむけて、軽く頭を下げた。

「武内宿禰でございます。では、八並殿は、北つ海の航路を?」

「は、然様、……越や出雲、伽耶あたりを我が庭としております。」

「それは頼もしい。」

 武内宿禰は目を細めた。八並が挙げた地は、どこも北つ海の主な交易の拠点ぬみだ。

 下枝が端女を引きつれて、碗と小皿を運んできた。碗には、醤で煮た昆布が1枚入っており、小皿には楚割すはやりが幾つかのせられている。下枝は、碗を3人の前にそれぞれ置くと、水差しから熱い湯を注いだ。虚空津比売は湯気の立つそれを持ちあげ、口をすぼめて細い息吹で冷ます。

「それで、今日はどうしたのだ。穴門豊浦宮あなととゆらのみやから遥々来たからには、何か動きがあったのか」

「それが、残念ながら。この歳の改まりもまた、仲津日子大王は豊浦にて過ごされるゆえ、申し伝えにつかまつりました」

 虚空津比売の、笹の様に鋭い射干玉の眸がざわりとゆらめいた。

「今年もか⁉竺紫に向かわれて、もう一年ひととせ経とうというのに、まだ熊襲はおろか、竺紫にも渡られていないじゃないか」

「まことに。思うに任せぬところでございますが」

 平伏するものの、その落ち着きぶりからは、永らく纏向を空けていることへの焦りは感じられない。

 仲津日子大王の虚空津比売への妻問いは、武内宿禰の働きあってのこと。

 この事態をこの男がどのように捉えているのか、そのはらさばいても知りたいところだったが、他族の者に焦りを見せるわけにはいかない。あくまで、鷹揚に構えなければならなぬ、そう、虚空津比売は心に定めていた。

 思い返せば、武内宿禰が初めて角鹿を訪れてのち、この男が画策していた仲津日子の日継も、息長との縁組も、順風満帆とはいかなかった。

 まず、その年の秋のはじめ、とうとう、淤斯呂和気大王おしろわけのおおきみかむあがりなされた。纏向に都した三代目の大王、武功いさおしにすぐれ、みずから竺紫洲つくしのしまをめぐって熊襲を平定ことむけ武人いくさびとであり、遠近おちこちの豪族の郎女いらつめを妻問い、数え切れぬみこ比売ひめを生したみたまのつよき大王だった。

 淤斯呂和気大王は息を引き取る前に、老いの床から、日継を名指しした。八坂入比売の生み参らせた稚足彦王わかたらしひこのみこを日継とする。居並んだ豪族たちは畏まったが、その真意を測りかねて困惑した。八坂入比売は「初国治らす」と称えられた御眞木大王みまきのおおきみの孫にあたるものの主だった豪族の後ろ盾がおらず、また稚足彦王もすでに年嵩だった。なにものが老いたる大王にその名を吹き込んだのか、豪族たちが顔を見合わせるなか、稚足彦はその歳改まりの正月に日継をした。

 うらを得て、志賀高穴穂宮しがのたかあなほのみやに宮処を定め、次いで、日継のみことして仲津日子を定めた。そして政務まつりごとを執ること五年、薨りされ、仲津日子が大王の日継をおこなうこととなった。

 しかし、ここで異変あだしことがあった。宮処みやどころを定める卜で、いずれの地も不祥さちあらずと出たのである。いまだかつてない出来事に、さまざまな中言なかごと邪言よこしごとが囁かれたが、仲津日子は「我が徳が未だ足りぬのであろう、いずれ神が嘉されるだろう」と、その在処を行宮かりみやとして政務まつりごとを執ることとした。

 さらに、凶事まがごとは続いた。日継して初の歳改まりに、熊襲が御調みつぎを途絶えさせたのである。叛意有りとして纏向は色めきたったが、仲津日子がそれをなだめて遣いを送り意を質させたところ、凶作で飢え死にも出ているがゆえ、御調遣みつぎのつかいを送れぬといらえがあった。

 仲津日子はいつくしびの心を発して、五穀を送らせ、次の年には日継を祝ってくれるよう云い添えた。

 だが、その翌年、また熊襲からの御調遣みつぎのつかいは姿を見せず、人を遣ると斬り殺されてしまった。この報せを受けた仲津日子は、熊襲に叛意ありとしてつみなし、みずから平定ことむけることを宣った。いくさを集め、新嘗の祭を待ってのち、西に向かって進発したのである。

 仲津日子が虚空津比売を妻問したのは、日継の年の秋である。盞結うきゆひのため、この角鹿で二月ふたつきを過ごした。雪の降り始めに、南の、武内宿禰たけうちのすくねが本拠を置く徳勒津ところつに移った。そこで歳改まりの正月を迎えたが、熊襲が御調遣みつぎのつかいを寄越さず、そればかりか大王の遣いを斬り殺したため、いくさおこし西に進発したのである。

 だから、虚空津比売は盞結うきゆひ以来、仲津日子に会わぬまま1年近く過ごしていることになる。

 虚空津比売は短いため息をついた。

「それで、纏向のほうは、どうだったのだ。ここに来る前に寄ったのだろう?」

「はは、お見通しでございますな。然様、留守居はしっかりつとめるゆえ、ご懸念なきようと仰せでございました。」

「誰がだ?大中比売おおなかひめか?」

 大中比売は、仲津日子が日継するまえに妻問したみめである。盞結うきゆひの後すぐに身籠り、年ごとに、二人のみこを生み参らせた。名を、麛坂王かごさかのみこ忍熊王おしくまのみこという。もう、七歳ころになっているはずだ。

「大中比売はそのようなことは。彦人大兄ひこひとのおおえどのが請けあわれましたな」

 ハッ、と虚空津比売はまたも短いため息を吐いた。

 彦人大兄ひこひとのおおえは、大中比売の父にして、淤斯呂和気大王のみこである。大兄、と呼ばれているとおり、淤斯呂和気の大王の数多のみこのうち、ヤマトタケルと称えられた小碓王おうすのみこ無きあと、もっとも有力なみこだった。

 稚足彦大王わかたらしひこのおおきみの日継により、大王になり損ねた大兄。代わりに、娘を次の大王である仲津日子と娶せることで、まつりごとの中枢に収まろうというのか。

 虚空津比売は頬杖をついたその指先で、自らの唇をいらいらと叩いた。

 ――貴女には、ここで私のための交易の拠点を築いてほしいのです。

 気弱げな、もの柔らかな声音が耳によみがえる。

 仲津日子が笥飯宮での盞結のとき、虚空津比売の手をとりながら、あの楼閣たかどので告げた言葉だ。

 ――私は武勇いさおしに優れているわけでも、大いなる霊威みいつに恵まれているわけでもない。いまだ、定まった宮処も持たぬ力無き大王です。

 仲津日子は、ヤマトタケルと称えられた父、小碓王おうすのみこの子であることに悩んでいた。父に並ぶ武功いさおしはのぞむべくもない。ならば、それとは異なることで、大王として認められねば。

 笥飯宮は、仲津日子の望みにかなうみなととして大きくなっている。くらを増やし、道を整え、あとは八並のように腕の良い挾杪者かぢとりや交易を活計たづきとする者にまかせておけばよい。

「私も、行こうかな、穴門豊浦宮あなととゆらのみやへ」

 楚割すはやりを齧っていた八並が、ブッと吹いた。

「……ひ、比売様っ?」

 下枝の声が裏返っている。刀自とじとなる女は、家に留まってその本拠を盛り立てるものだ。婚姻も、男が通うもの、女は家を出ない。

 下枝は砂溜を回り込んで虚空津比売の膝にとり縋った。

「比売様、なりません。比売様は大王の妃にして、この笥飯宮のあるじでいらっしゃるのですよ!」

 幼いころから虚空津比売の側仕えをつとめてきた下枝だ。少々の無茶は聞きなれていた。だが、「云ってみただけ」という言質を取らねば、心安くならないことも身に染みている。

 虚空津比売は手元の楚割を下枝の口に押しこんだ。

「妃だから云っているんだ。知っているか、下枝。淤斯呂和気大王が竺紫洲つくしのしまに熊襲を平定ことむけに出られたとき、纏向に戻ったのは七年ななとせのちだ。そんなに待っていれば、私はもう子など望めぬ姥だぞ。

 大中比売の産みまいらせた王はもう七つほどになる。しかも二人だ。さらに七年経てば、御幾つだ?誰もが日継と認めているだろう」

 だから、大中比売とその父、彦人大兄は、急ぐ必要はないのである。みこが若者に成長するまで、竺紫つくしでも日向ひむかでも回っていてくれればよい。

 下枝は悲しみとも怒りともつかぬ顔で唇を噛んだ。

 虚空津比売は、下枝が大事に仕えてきた比売だ。それも、淡海だけでなく、その周りの丹波や多遅摩、そしてこの角鹿も糾合する大息長の氏上うじのかみの娘だ。

 大王に肩を並べるほどの豪族の兄比売が、このように一年ひととせも放置されてよいわけがない。

「ですけれど、御みずからお出ましになるなんて」

 それこそ、纏向の大中比売に侮られるのではありませんか。

「かもしれないが、ここでずっと待っていたところで、時量師神ときはかしのかみは我らの味方をしてくれないぞ。」

 纏向で、諸々の豪族の目に触れながらすくすくと健やかに成長する二人のみこ

 それが、最も脅威なのだ。

「八並、穴門豊浦宮に船は出せるか。」

 八並は、楚割すはやりが歯に詰まったらしく、ああでもこうでもないと顎を動かし、湯を煽ってみたりしていたが、慌てていずまいをただした。

「あ、は、はいッ。比売様の御座船でございますな……まあ、積み荷や何かのこともありますからただちにとはいきませんが、ひと月ほどもあれば」

 失礼、と断って、八並は砂溜に再び絵図をかきこんだ。

「角鹿がこちら、で、穴門はこの、秋津洲あきつしまの西の端ですな。冬の北つ海は荒れますが、風向きがよいので、こう、……」

 武内宿禰は、興味深げに砂溜に身を乗り出して、絵図を見ていたが、

「八並殿、北つ海ではなく、内つ海を通ることはできませんか」

 と、八並の棒を引き取って、絵図に内つ海を描き足した。内つ海の南には、伊予二名洲いよのふたなしま

「いやあ……俺は北つ海なら、北は渤海でも越の先でもご案内しますが、内つ海は勝手が違いまさぁね」

「どういうことだ?」

「さきほどもお話しした通り、我ら挾杪者かぢとりは、どこにどういった水門みなとがあって、首邑があるのかを何度も航海して、知っているわけです。その首邑にどんな首渠がいるのか、船を寄せても襲われないか。ほかには、例えば嵐が来たときにどこに逃げ込めばいいか、海の浅いところ、深いところ、流れ、そういうことを何度も航って、覚えていくわけですよ。内つ海は、いわば、俺たち角鹿の挾杪者かじとりにとっちゃ、異界とつくにですよ。赤子と同じだ」

「……、なるほどな。……ということだが、なぜ内つ海を通らせたいんだ?」

 虚空津比売は、武内宿禰に水を向けた。続いて、砂に線を引く棒を武内宿禰から取りあげて、一つ所を示す。

「河内の津を出て、淡路洲あはじのしまを抜ければ、すぐに播磨、そして吉備だ。ここを抜けよというのか?」

 播磨、吉備は、大息長と並ぶ大豪族だ。そのかみの伊久米大王いくめのおおきみの御代に四道将軍よつのみちのいくさのきみが遣わされ、吉備津彦と丹波美知主王たにはのみちのうしのみこは馬の轡を並べる間柄であった。

 淤斯呂和気大王おしろわけのおおきみ大后おおきさきは吉備の友族ともがらである播磨稲日大郎女はりまのいなびのおおいらつめであり、播磨稲日大郎女は小碓王おうすのみこ、すなわちヤマトタケルを生んだ。大郎女の死後、大后には八坂入比売やさかいりひめがたてられたが、大郎女の妹が後宮きさいのみやに入り生み参らせたのが、彦人大兄である。

 仲津日子は、吉備の勢力に取り巻かれている。息長のほうが、あだし者なのだ。

「故にこそですよ」

 穏やかに、しかし力強く、武内宿禰は頷いた。

「虚空津比売には仲津日子大王の妃として、この内つ海のくにびととよしみを結びながら、穴門に向かっていただきたいのです。北つ海をわたって穴門に向かうことは、よほどたやすいでしょう。しかしそれでは、意味をなさない。比売こそが仲津日子様の大后にふさわしいと、この内つ海のものたちに知らしめることが、後々のために肝要なのです。……この夜也久を、お信じください」

 夜也久。それはかつて虚空津比売に明かした、武内宿禰のまことの名だ。

 虚空津比売は男の双眸に、久方ぶりに瓊珠の揺らめきを見た。

「なる……ほど、な」

 砂絵図を睨みつけるように目を細める。播磨を、吉備を避けているようでは、それこそ物笑いの種というものだろう。

「比売様、ですけれど……肝心の船はどうなさるのです?八並どのが内つ海でお手上げなのでしたら、角鹿で挾杪者かぢとりは望めませんよ」

 いつのまにか砂溜を覗きこんでいた下枝が、虚空津比売の傍らで疑問を呈した。

「あー……、」

 失念していたとばかりに、湧きあがっていた熱い決意が急にしぼむ。ちらりと武内宿禰をみやり、尋ねる

徳勒津宮ところつのみやで用立てることは、難しいか……?」

 徳勒津ところつは、武内宿禰が本拠とする紀国きのくに水門みなとで、仲津日子が行宮としていた地である。

「申し訳ございませんが、大王の妃の御座船とできるような船は、すべて穴門に出払っております」

「……そうか」

 虚空津比売は胡坐の膝に頬杖をついて唸った。しかし、どれほど砂絵図を睨んだところで妙案が浮かぶわけもない。

 奥では、楚割のお代わりを端女に要求した八並が、飽かず楚割を噛んでいる。

「…や」

「八並どの!海の事なら任せろと日頃大見得を切っておられるではないですか!なにか良い考えはありませんか?」

 機先を制されて、虚空津比売は驚いて下枝を見やった。穴門に赴くなどとんでもないと反対していたが、虚空津比売が困っていれば親身になってしまう、そういう姉のような存在なのだ。

「…はあ、そうですなあ。」

 八並は楚割を噛み千切って飲み込み、ついで器に残っていた冷めた湯も飲み干した。そして、ちょいと拝借しますよ、と云って、武内宿禰から砂掻きの棒を取り戻した。

「ま、我ら角鹿の衆は北つ海専門ですがね。比売様のお父上や、ましてや高額比売たかぬかひめ様は當麻たいま女首渠めのおびとでいらっしゃる。何か、内つ海に通じた者を、知ってると思いますよ」

 八並が印をつけたのは、河内だった。

「父様と母様か……、」

 虚空津比売は気が抜けたように、大きく息を吐いた。八並の云う通り、笥飯宮だけでどうこうすべきことではない。そもそも、そのような動きをするなら、まずは息長の首渠おびとである父の宿禰王の許しを得なければならない。

「まずは、父様に会わねばならないな」

「それは、よいお考えです。宿禰王様なら、よいご判断をいただけるでしょう」

 下枝はうきうきと声を弾ませた。虚空津比売が首をかしげると、

「だって宿禰王さまなら、わざわざ穴門まで出向かずに済む何か良いお考えをお持ちかもしれないでしょう」

 と笑んだ。

「夜也久、これからおまえはどうするのだ?穴門豊浦宮あなとのとゆらのみやに還るのか?」

「いえ、私は新嘗や歳改の祭をこちらで過ごしてから穴門に戻るように仰せつかっております」

「どういうことだ?」

「仲津日子様の形代をお預かりしているのです。正式な宮処はいまだ定まっていませんが、纏向は代々よよ父祖みおやが宮処としてきたところ、その祭を疎かにしてはならぬとのおおせで」

「おまえが、ぎたてまつるのか?仲津日子様のかわりに?」

 それもまた、おさまりが悪い気がした。彦人大兄や、三輪の祝部はふりべたちの反感をかいそうだ。

「もちろん私ではありません。そのために、中臣厳津なかとみのいかつどのを伴って戻っております。祭が終われば、中臣厳津どのとともに穴門に向かいます。」

 中臣厳津は、大王の神祀りをうけもつ忌部いわいべだ。仲津日子に随って、穴門に赴いていたはずだ。

 中臣厳津なかとみのいかつの送り迎えは表向きで、武内宿禰もまた大和にしばらく身を置いて、あれこれとやることがあるのだろう。

「なら、船発ふなだちが決まれば、纏向か徳勒津に遣いをだそう。」

 ええ?まだお出ましになるおつもりなんですか、と下枝が不満を口にした。新嘗の祭にそなえた手練てれんか、軽やかな篠笛の音と鉦の音が風にわたり、遠くよりかすかに響いた。

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