第2話:【生後2ヶ月】授乳の抵抗

 生後二ヶ月。

 世間一般の育児書を開けば、そこには「表情が豊かになり、あー、うー、といった喃語(なんご)が出始める微笑ましい時期」と書かれている。ふっくらとした赤ん坊らしい丸みを帯び、親子の絆が深まる、最も幸福な季節の一つであるはずだ。


 だが、俺たち広瀬家のリビングに漂っているのは、そんな甘やかな空気ではなかった。

 そこにあるのは、重厚な沈黙。そして、妻・美由紀が放つ、試合直前の舞台袖のような、極限まで研ぎ澄まされた集中力の残滓(ざんし)だ。


「……終わった?」


 俺がキッチンから恐る恐る声をかけると、ソファに深く沈み込んでいた美由紀が、ゆっくりと顔を上げた。

 彼女の額には、薄く汗が滲んでいる。

 美由紀は現役のフィジーク選手だ。スクワットで100キロ以上のバーベルを担ぎ、歯を食いしばってセットを完遂する彼女が、たかが「授乳」という行為の後に、これほどまでに消耗しきっている。


「……ええ。なんとか、今回も無事に」


 美由紀の手元には、満足げに眠りに落ちた陽葵がいる。

 その寝顔は、確かに天使だ。長い睫毛、透き通るような肌。

 しかし、美由紀がそっと捲り上げた授乳服の先、彼女の胸元には、痛々しいほどの「吸着痕」が残されていた。


 陽葵の吸う力は、もはや赤ん坊のそれではない。

 それは、真空ポンプのような無慈悲なまでの負圧であり、それを生み出しているのは、生後二ヶ月にして既にラインが浮き上がりつつある「顎筋」と「咬筋」の異常な発達だった。


「健二、昨日ね、助産師さんの訪問があったでしょ」


 美由紀が、震える指でスポーツドリンクのボトルを掴み、一口飲んでから続けた。


「あの方、陽葵の体をバスタオル越しに触った瞬間、手を止めたの。『お母さん、この子、何か特別なマッサージとかされてます?』って。……ただの健康診断なのに、まるで得体の知れない重機を検品するみたいな目をしてたわ」


 俺は何も言えず、陽葵の小さな、けれど異常に密度の高い脚を見つめた。

 

 最近、俺たちが陽葵を抱く時に感じるのは「重さ」ではない。

 それは「圧力」だ。

 

 通常、赤ん坊を抱っこ紐で胸に抱けば、柔らかい体が親の体幹にフィットし、重心が一体化するものだ。

 だが陽葵は違う。

 彼女を抱っこ紐に入れようとすると、彼女自身の広背筋と脊柱起立筋が、抱っこ紐の布地を内側から「弾き返そう」とするのだ。

 柔軟性はある。決して体が硬直しているわけではない。

 ただ、彼女の筋肉は、何もしなくても常に「正しいポジショニング」を維持しようとする。その結果、抱き手である俺たちの軟弱な脂肪や筋肉が、陽葵の鋼鉄のような体幹によって押し潰される形になるのだ。


「これを見て」


 美由紀が、スマートフォンの動画を再生した。

 そこには、ベビーベッドの中で仰向けになっている陽葵が映っている。

 彼女は何かおもちゃを取ろうとしたのか、何気なく右手を伸ばした。

 その瞬間。

 パジャマの袖の下で、陽葵の上腕三頭筋が「ボコッ」と隆起した。

 

 錯覚ではない。

 二ヶ月児の腕に、三頭筋の長頭と外側頭の境界線が見える。

 そして次の瞬間、陽葵が握ったおもちゃ――強化プラスチック製のガラガラ――が、ミシリという鈍い音を立てて歪んだ。


「……まだ二ヶ月だぞ。……握力計の数値に換算したら、一体いくらになるんだ」


「数値だけじゃないわ。見て、この食べっぷり」


 美由紀が指差した先には、空になった哺乳瓶が転がっている。

 母乳だけでは足りず、粉ミルクを足しているのだが、その消費量が異常だ。

 陽葵の体は、摂取した全カロリーを、一切の無駄なく「筋肉の合成」へと回しているようだった。

 

 育児書の「成長曲線」のグラフ。

 身長と体重の比率は、かろうじて標準の最上位枠に収まっている。

 だが、その中身(バルク)が違う。

 同じ体重の赤ん坊が「綿菓子」だとしたら、陽葵は「超合金の塊」だ。


「この前、公園で他のママさんに話しかけられたの。『よく育ってますね、パパとママがビルダーだから、遺伝かしら』って笑いながら。……私、笑い返せなかった」


 美由紀の瞳に、微かな恐怖の色が混じる。

 

「私たち、知ってるじゃない。このレベルの筋密度を維持するために、どれだけのトレーニングと、どれだけのサプリメントが必要か。それを、この子は……寝て、乳を飲んでいるだけで達成してしまっている。これが『遺伝』の一言で済まされるなら、私たちのこれまでの努力は何だったの?」


 美由紀の言葉は、全アスリートが抱く根源的な敗北感に似ていた。

 俺たちは一生をかけて、筋肉という神殿を築こうとしている。

 けれど、陽葵は生まれながらにして、その神殿の玉座に座っている。

 

 俺はソファに近づき、眠っている陽葵の小さな「ふくらはぎ」に指を触れた。

 皮膚は、赤ん坊らしい瑞々しさを保っている。

 だがそのすぐ下にあるのは、触れた瞬間にこちらの指の指紋が消えてしまいそうなほど、均質で、強固な、圧倒的な質量の連なりだ。

 

 陽葵が、ふと夢を見たのか、足をピクリと動かした。

 その拍子に、俺の親指の付け根に彼女のかかとが当たった。


「っ……痛っ……」


 思わず声が漏れた。

 ただの寝返りの余波。

 それだけで、俺の親指の付け根に、鈍い痛みが走る。

 もし彼女が、本気で誰かを蹴ったら?

 もし彼女が、寝ぼけて俺たちの喉元を掴んだら?

 

 愛しいはずの我が子の成長が、同時に、家庭内に「制御不能な重機」を飼っているような、静かな、けれど確実なプレッシャーとして俺たちの精神を削り始めていた。

 

 俺は、リビングの隅にある自分用のトレーニングマシンに目をやった。

 普段なら自分を鼓舞してくれるその鉄の塊が、今はひどく華奢で、頼りないものに見えた。

 

 陽葵は、まだ二ヶ月だ。

 これから首が座り、寝返りを打ち、ハイハイを始める。

 その時、この家の壁や床は、彼女の「出力」に耐えられるのだろうか。

 

 俺はキッチンに戻り、特大のシェイカーにプロテインをぶち込んだ。

 今はただ、親である俺たちが、肉体的にも精神的にも、この「小さな怪物」を受け止めるためのバルクを蓄えるしかない。

 

 育児ではない。

 これは、一種の、共存のための「防衛」だ。

 

 俺は暗闇の中で、ゴクゴクとプロテインを喉に流し込みながら、ゆりかごの中でスースーと規則正しい寝息を立てる陽葵を見つめ続けた。

 彼女の寝息に合わせて、ベビーベッドのフレームが、わずかに、本当にわずかに、きしみ音を立てていた。

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ボディビルダー夫婦の超元気な娘の成長記録 五平 @FiveFlat

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