ボディビルダー夫婦の超元気な娘の成長記録

五平

第1部:『よく食べ、よく眠り、壊れない』

第1話:【生後0ヶ月】3,200グラムの「硬さ」

 その産声は、分娩室の空気を震わせるというよりは、物理的に「押し広げた」という方が正しかった。

 

 俺と妻、広瀬(ひろせ)健二と美由紀は、ある種の「筋肉のエリート」を自負して生きてきた。俺は全日本ボディビル選手権のファイナリスト常連であり、美由紀もまた、女子フィジーク界では知らぬ者のいないトップ選手だ。俺たちの生活のすべては、筋繊維の一本一本をいかに太く、密度高く、そして美しく配置するかという一点に集約されていた。

 口にするものはグラム単位で管理され、睡眠は筋肉の合成を最大化するための神聖な儀式。俺たちの肉体は、いわば「徹底的な管理と努力」によって構築された、人造の芸術品だ。


 だからこそ、俺たちは「生命」という、コントロール不能な野生に対しても、どこか自分たちの知識が通用するはずだという傲慢さを抱いていたのかもしれない。


「……ッ、はぁ、……はぁ……」


 美由紀が、脂汗を流しながら最後の力を振り絞る。

 通常なら夫が手を握り、「頑張れ」と声をかけるシーンだろう。だが、俺たちの場合は少し違った。俺は美由紀の呼吸のリズムに合わせて、彼女の広背筋がどのように収縮し、腹圧がどこに逃げているかを無意識に分析していた。プロとしての視点が、感動を上回っていた。

 

 そして、その瞬間が訪れた。


「あぎゃあぁぁぁん!!!」


 響いたのは、新生児特有の「ほぎゃあ」という頼りない泣き声ではなかった。

 低く、太く、そしてどこか肺活量の限界を感じさせないほどに長く続く、咆哮。

 分娩室の担当医が、思わず耳を疑ったように手を止めた。


「……随分、肺の強い子ですね」


 医師のその言葉は、後に振り返れば「あまりに控えめな表現」でしかなかった。

 助産師さんに抱き上げられた赤ん坊――俺たちの娘、陽葵(ひまり)は、全身に胎脂を纏いながらも、その四肢を驚くほど力強く突っ張らせていた。

 

 俺は、おずおずと差し出した自分の腕に、陽葵を受け取った。

 ボディビルのトレーニングで100キロを超えるバーベルを日常的に扱っている俺にとって、3キロ程度の重みなど、本来なら羽毛のようなものだ。

 だが、その瞬間、俺の「プロとしての感覚」が猛烈な警告を発した。


(――おかしい。)


 脳が計算した重さと、皮膚が感知した質感が、致命的に食い違っている。

 赤ん坊というのは、抱き上げた時にその柔らかさゆえに、抱き手の腕の形に合わせて適度に沈み込み、重さが分散されるものだ。いわば「流動体」に近い。

 しかし、俺の腕の中にいる陽葵は違った。

 彼女の体は、俺の腕の曲線に一切追従しなかった。

 

 背中から尻にかけてのライン。そこには、新生児には存在しないはずの「抗力」があった。

 まるで、柔らかい毛布の下に、磨き上げられた硬い大理石の彫刻が隠されているような、そんな感触。


「……健二さん、見せて」


 美由紀が、青白い顔で手を伸ばす。

 俺は無言で、陽葵を美由紀の胸元へと運んだ。

 美由紀の指先が、陽葵の小さな背中に触れる。その瞬間、彼女の瞳が鋭く見開かれた。それは、競技会のバックステージでライバルのコンディションを確認する時の、あの鋭敏なアスリートの目だった。


「ねえ、これ。……バックダブルバイセップスのポーズを取らせてるわけじゃないわよね?」


 美由紀が冗談めかして言ったが、その声は微かに震えていた。

 俺たちは知っている。

 筋肉というのは、適切な栄養と、適切な負荷、そして何より「時間」をかけて練り上げていくものだ。

 だが、陽葵の背中には、既に広背筋の起始と停止がはっきりと分かるような、異常な「張り」があった。

 

 俺は、自分の職業病を疑った。

 毎日毎日、鏡の前で筋肉の陰影を追いかけ、ミリ単位の筋肥大に一喜一憂している俺たちだ。普通の人が「元気な赤ちゃん」と見る対象を、自分たちの歪んだレンズで解釈してしまっているのではないか。

 そうに違いない。そうであってくれ。

 

 翌日、個室に移動した美由紀と、ゆりかごの中で眠る陽葵を訪ねた。

 陽葵は「よく寝る子」だった。

 しかし、その眠り方すらも、俺たちを不安にさせた。

 

 普通の赤ん坊は、寝ている時は四肢を投げ出し、完全に脱力しているものだ。

 だが陽葵は、眠っている最中も、その四肢に微かな「トーン(緊張)」が保たれていた。

 まるで、次の瞬間にでも爆発的なスタートダッシュを決める準備をしているアスリートのように、筋肉が眠っていないのだ。


「……健二、これ見て」


 美由紀が、スマホの画面を見せてきた。

 そこには、俺たちの業界では有名な、ある遺伝子変異についての論文が表示されていた。

 『ミオスタチン関連筋肉肥大』。

 筋肉の成長を抑制するタンパク質「ミオスタチン」が欠損、あるいは正常に機能しないことにより、通常ではあり得ないレベルの筋肥大が起こる現象。

 

「まさか。あれは牛とか、一部の犬とか……人間でも極めて稀なケースだろ」


 俺は否定しようとした。

 だが、目の前で眠る娘の、生後数日にして既にカットが浮き出そうになっている大腿四頭筋を見れば、その言葉は空虚に響いた。

 

 俺たちは、プロだ。

 誰よりも筋肉を愛し、誰よりも筋肉に人生を捧げてきた。

 それなのに、今、目の前にある「究極の筋肉」を前にして、俺たちが感じているのは、歓喜ではなかった。

 

 それは、得体の知れない「不気味さ」だ。

 

 努力も、計算も、苦痛も経ずして、ただ「そこに在る」だけの暴力的なまでの肉体。

 俺たちが一生をかけて到達しようとしている高みに、この子は産声と同時に立ってしまっているのではないか。

 

 俺が陽葵の小さな手を握ると、彼女は目を覚まさぬまま、反射的に俺の指を握りしめた。

 

「……っ!」


 思わず声が出そうになった。

 握力。

 それは、生後間もない赤ん坊の「把握反射」というレベルを、明らかに逸脱していた。

 俺の小指の関節が、陽葵の小さな掌の中で悲鳴を上げる。

 

 筋肉の密度が、骨を圧迫している。

 陽葵は、俺の指を握りつぶそうとしているのではない。

 彼女にとっては、これが「普通」の力なのだ。

 

「健二。私たち、とんでもないものを授かっちゃったのかもしれない」


 美由紀が、窓の外を見ながらぽつりと呟いた。

 俺たちのこれまでの常識、価値観、そして培ってきたトレーニング理論。

 それらすべてが、この3,200グラムの「塊」の前では、無意味な紙屑に変わろうとしていた。

 

 俺は、震える手でカメラを向けた。

 陽葵の寝顔は、天使のように愛らしい。

 けれど、その首から下の造形は、既に過酷な戦場を生き抜いてきた戦士のような、完成された威厳を放っていた。

 

 これが、俺たちがこれから記録し続けていくことになる、陽葵の「成長記録」の、最初の一頁だった。

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