手遅れな私たち

鋏池穏美


 春が穏やかに風を吹かす。

 変わりゆく日々が滔々と流れ、私ももう、高三。この時期は校舎の中の空気が少しだけ変わる気がして、どの季節よりも好きだ。冷たさが抜けきらない朝でも、窓から差し込む光にはどこか柔らかさが混じるような、そんな。廊下を歩く生徒たちの声も心なしか軽く感じる。けれど三年生の教室だけは違っていた。


 進路、受験、卒業。


 言葉としてはありふれているのに、それぞれが胸の奥で重りのように鎮座し、軽やかな春に少しばかりの重さをもたらす。私は窓際の席に座って、ノートを閉じたまま何もせずにいた。視線を落とした先、ノートの表紙に書かれた村上糸葉むらかみいとはという名前。


 ──糸葉って名前、素敵だよね。響きが好きなんだ。


 糸葉。

 自分の名前を心の中でそっと呼ぶ。私はここにいる。ちゃんと存在している。それを確認するためのささやかな儀式。あたたかだったはずの自分の名前。彼が好きなんだと言って呼んでくれた──。

 けれど今は違って聞こえる。

 

 一戸伊吹いちのへいぶき


 伊吹はいつも教室の中心にいた。

 自分から前に出ようとするわけじゃないのに、気づけば人が集まっている。声が大きいわけでもなく、特別に面白いことを言うわけでもない。ただ空気を読むのが上手で、誰の話も否定しなかった。


 初めて話した日のことは、今でも鮮明に覚えている。消しゴムを落とした私。それを拾ってくれ、「はい」と差し出した伊吹。そのとき、私の名前を呼んだ。

 ──糸葉さん、消しゴムの使い方、きれいだね。

 それだけで胸が少しだけ熱くなったあの日。名前を呼ばれることがこんなに嬉しいものだと、初めて知った気がした。


 伊吹と付き合い始めてから私は少しずつ変わったと思う。不安で眠れない夜が減り、失敗しても立ち直れるようになった。

 ──糸葉なら大丈夫だよ。

 伊吹はいつもそう言ってくれる。模試の結果が悪かったときも、進路相談で先生に曖昧な顔をされたときも。

 ──糸葉。

 あたたかだった私を呼ぶ声。一緒にいると心が落ち着いた。それは陽だまりの中、微睡むような心地よさに似ている。無理に話さなくてもよくて、沈黙も苦しくなかった。ただ隣にいるだけで、「大丈夫」と思える安心感。けれどそれら宝物のような思いは、半年前に崩れ去った。


 半年前、伊吹は家族旅行で青森へと出かけた。紅葉がきれいだとスマートフォンに写真を送ってくれ、私はその報告写真を眺め、早く帰ってこないかなぁ、なんて考えていた。赤く染めあげられた山道、抜けるように晴れ渡った空、少し傾いた構図。写真の中、満面の笑みで立つ伊吹の姿。

 ──糸葉。

 胸を熱くする声が、聞こえた気がした。


 写真を送ってくれた翌日、土砂崩れのニュースが流れた。

 伊吹の両親は帰らぬ人に。

 その報せを聞いたとき、私は言葉を失った。

 ニュース映像の中の暗い土と濁った水は、どこか現実味がなくて、まるで作り物のように見え──。

 けれどそれが伊吹の現実だということだけは、はっきりと分かった。伊吹はしばらく学校を休み、連絡のない日々が過ぎる。


 ──糸葉。

 ようやく戻ってきた伊吹は、まるで別人のように感じられた。痩せたわけでも、顔色が悪いわけでもない。ただ私の名前を呼ぶ声、それだけが冷えていた。そこにはあたたかさも何もなく、私を呼ぶ記号として発しているような。

 話しかければ返事はある。

 ぎこちないけれど、ちゃんと笑顔も見せる。

 ただやはり、声の温度が違う。

 紡ぐ言葉も少しずつ変わっていった。

 ──もう、無理だよ。

 ──どうしようもない。

 ──今さら悔やんでも手遅れなんだよ。

 ──どうせ糸葉もいなくなるんだ。

 両親の死によって心が壊れてしまった伊吹。どこか陰りを帯びた表情には以前のような明るさはなく、見ているだけで心が苦しくなってしまう。私にできたのはただそばにいること。伊吹の手を握り、好きだよと伝える。ただ、それだけ。


 そんな日々を過ごしていると、伊吹は私にも後ろ向きな言葉を投げかけてくるようになってしまった。

 趣味の話をすると、「興味ないよ」。

 入試の勉強をしていると、「どうせ無理だって」。

 私が何かを頑張ろうとするたび、伊吹は小さな声で囁いた。

 ──そんなの、無駄だよ。

 変わってしまった伊吹。それでも手を握った。好きだよと伝えた。前向きな言葉を言い続けた。「そんなことないよ」、「私、頑張るから」と。伊吹が明るく私を励ましてくれたように、私も前向きな言葉を返し続けた。伊吹も自分がおかしくなっているのは分かっているようで、「ごめん」、「どうしても前に進めなくて」、「糸葉がいてくれてよかった」と何度も泣かれた。


 伊吹にはきっと時間が必要なんだ。いつかまた、あの頃の伊吹に戻ってくれるはず。そう自分に言い聞かせ、そばに居続けた。両親を亡くす悲しみは私には分からない。分からないけれど、そばにはいられる。伊吹の痛みを少しは背負える。

 けれど伊吹は日増しに変わっていった。

 最近では私が何かをしようとするたび、耳元で囁くように。

 ──意味ないって。

 ──もう、手遅れ。

 大好きだったはずの声は、身を切るように冷たかった。それでもときおり思い出したように「ごめん」と泣き出す伊吹。いつか、いつかあの頃の伊吹に──。


 放課後の教室、そんなことを思い出しながら外を見る。外は曇っていて、空が低く感じられた。窓辺には伊吹が佇み、教室に二人きり。私はいつものように声をかけた。

「伊吹は……将来はどうしたいの?」

「考えても無駄だよ。糸葉は?」

 やはり返ってきた後ろ向きの言葉。けれど否定してはだめだ。伊吹に寄り添い、私が支えなければ。

「私は……カウンセラーになりたいんだ。最近、ようやく見つけた夢」

 まだ誰にも言っていなかった夢。ようやく見つけた進みたい未来。

「だからもっと勉強しなきゃって。私、そんなに真剣に将来のこと考えてなかったでしょ?」

 伊吹は黙って私を見ていた。

 その沈黙が、怖かった。

「それで今さら勉強? 無駄だよ。手遅れ」

 その一言で、心の中の何かが折れた。確かに私は頭がいい方じゃない。それでも、頑張ろうと思った。本当に今さらになってだけど、夜遅くまで机に向かって──

 それを、一番大切な人に否定された。

「……うん。そうかもね」

 自分でも驚くほど静かな声。

 伊吹を見ると、見たことのない笑顔を浮かべていた。三日月のように歪められた口元。

 厭な、笑顔。

「じゃあ、貰うね」

 左手首を強く掴まれ、関節を逆向きに捻じられた。

 痛い。

 手首からは聞いた事のない音がして、激痛が走る。

 喉が裂けそうなほど叫んで、床に崩れ落ちた。それでも伊吹は掴んだ手首を離してくれない。次の瞬間には、手首がねじ切られてしまった。噴水のように血が溢れる。


 痛い。

 痛い。

 痛い。


 それしか考えられなかった。叫ぶことしかできなかった。

「手をくれ、って言っただろ?」

 伊吹はねじ切った私の左手を愛おしそうに抱きしめ、そう冷えた声で笑う。

 ──美味しそう。

 私の、ねじ切った左手を食べ始めた伊吹。

 意識が遠のいていく中、ぐちぐちとした咀嚼音だけが響いていた。


―――


 目を覚ましたとき、私は自分の部屋のベッドにいた。

 左手は元通りで、ベッドに腰掛けた伊吹に見下ろされている。あれは夢、だったのだろうか。

「夢じゃないよ」

 そう、心を覗いたかのように囁いた伊吹。いや、違う。私と伊吹の心は繋がっていた。説明できない。けれど、分かる。

 静かに流れ込んでくる伊吹の心。

 伊吹が旅行で訪れた青森。土砂崩れはたまたま起きただけで、それ以上の災禍が伊吹を襲った。


 ●●●に手を喰われ、眷属に、人ならざるものに。そうして私も●●●の眷属に、人ならざるものに。


 その事実がすんなり心に流れ込む。

 人間の声帯では発声できない●●●。遥か昔からその地に住まう不定形の何か。

「祝いは右に、呪いは左に」

 声を発したのは伊吹だが、土の匂いを孕んだそれが、心の奥で囁いた気がした。

 眷属となったものが獲物の左手を喰らい、その身に呪いをためる。喰われたものも眷属に。そうして呪いをためた眷属は、いずれ●●●に喰われ──。

「自分に好意を向けている相手ほど、喰らった時の呪いは濃い。それに、美味しい。だけど決まりがあるんだ」


 手をくれ──


 そう伝え、それを肯定してもらえなければ喰らえない。「手をください」、「手を頂戴」などでは条件を満たせない。他にも、「手をくれって言うから、『うん』って答えて」なんてやり方もだめだと。

「なんにでも決まりはある。僕たちが最後は●●●に喰われてしまうこともね」

「最後はどろどろに溶かされるんだね、私たち。生きたまま、●●●の腹の中で」

 不思議と怖くはなかった。伊吹と繋がっている心地よさに満たされている。それこそ溶け合い、混じり合うような。

「眷属になったからだよ」

 そう伊吹が囁いて差し出した左手を、私は掴んだ。

「でもさ、伊吹。『手をくれ』を肯定してもらうの、難しくない? よく私に言わせられたね」

「難しかったよ。でもほら、糸葉は僕のことが大好きだっただろ。だから見捨てたりはしないだろうし、数撃てばいつか肯定するかなーって」

「伊吹のこと大好きだった時点で、手遅れだったってことか」

 その言葉に、伊吹が笑った。



 ──手遅れな私たち(了)

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