狂った制服人形

森崇寿乃

汚濁の共鳴

 雨は粘り気を帯び、アスファルトを黒く腐らせていた。

 湾岸の廃倉庫、その奥深く。カビと鉄錆の臭いが充満する空間は、逃げ場のない檻のように重苦しい。

 その中央、スポットライトのような街灯の下に、彼女は転がっていた。

 お嬢様。その呼称が皮肉に聞こえるほど、エリカの姿は凄惨だった。名門校の純白のブラウスは、執拗な刃の跡によってズタズタに引き裂かれ、裂け目から覗く陶器のような肌には、無数の赤紫色の痣が「装飾」として刻まれている。

 だが、異常なのは彼女の表情だった。

 折れた指を泥に浸しながら、彼女は恍惚とした笑みを浮かべていた。裂けた唇から漏れるのは悲鳴ではなく、甘い喘ぎに近い呼吸。彼女にとって、この損壊は「完成」へのプロセスであるかのようだった。

「……狂ってるな。アンタも、アンタをこうさせた野郎も」

 闇の中から、レイコが静かに姿を現した。革ジャンの擦れる音が、湿った空気の中で異質に響く。

 その直後、廃倉庫のスピーカー群が悲鳴を上げた。ハウリングを伴う暴力的な大声が、コンクリートの壁を震わせる。

『エリカ! もっとだ! もっと純粋な「欠落」を見せろ! それが我が一族の、私の、お前への究極の期待だ!』

 倉庫の二階、防弾ガラスで仕切られた監視室から、マイクを握りしめた男が咆哮していた。エリカの実父である。

 この男は、単なる毒親ではなかった。彼は芸術家を気取った「破壊者」だった。娘という最高級の素材を、暴力というノミで削り出し、自分だけの最高傑作に仕立て上げる――その歪んだ審美眼こそが、エリカをここまで追い込んだ正体だった。

「……ねえ、もっと。もっと壊して、お父様」

 エリカが、血に濡れた喉で囁く。その声に呼応するように、天井から自動制御された金属の鞭がしなり、彼女の背中をさらに引き裂いた。肉の焼けるような音と、むせ返るような血の香りが立ち込める。

「おい、おっさん。趣味が悪すぎて反吐が出るぜ」

 レイコは二階を見上げ、冷ややかに言い放った。

 男はガラス越しにレイコを睨みつけ、再びマイクに怒声を叩きつける。

『部外者が口を出すな! これは聖域だ! この子は私の愛によって、この汚らわしい世界から解き放たれるのだ! 純粋な『美』に到達するのだよ!』

 レイコは溜息をついた。彼女の手には、前回の騒動でマキが持ち帰った、あの「極蜜安納芋」が握られていた。食べかけの、冷えて硬くなった、ひどく現実的で卑近な芋。

「純粋だの美だの、御託はいいんだよ。アンタがやってるのは、ただの『自慰』だ。自分のガキを使って、自分の空っぽな殻を満たそうとしてるだけだ」

 レイコは、その芋を無造作に、エリカの顔の横へ放り投げた。

 泥と血にまみれた芋。耽美な地獄に突如として現れた、生活の臭い。

「……何、これ」

 エリカの瞳に、初めて戸惑いという名の「正気」が宿った。

 恍惚の檻を、芋という滑稽な現実が突き破ったのだ。

「食えよ。アンタが夢見てる地獄より、そっちの方がずっと重くて、腹に溜まるぜ」

『邪魔をするなァ!!』

 男が叫び、防弾ガラスを叩く。彼はエリカが「正気」に戻ることを何よりも恐れた。

 レイコは腰のホルスターから、重厚なマグナムを抜き放った。銃口は二階の男ではなく、天井の梁を支える重要な接合部へと向けられた。

「アンタの期待は、ここで終わりだ。……幕引きの時間だぜ」

 爆音。

 マグナムの放った弾丸が金属を弾き飛ばし、連鎖的に天井の構造体が崩壊を始めた。

 男のいる監視室が傾き、防弾ガラスが重力に耐えきれず粉々に砕け散る。

「あ、あああ……私の、私の最高傑作がッ!」

 男は二階から瓦礫と共に転落し、自らがエリカを痛めつけるために用意した、鋭い鉄条網の檻の上へと叩きつけられた。皮肉にも、彼は自分が娘に与えたのと同じ苦痛に、自らの肉体をズタズタにされることとなった。

 静寂が訪れる。

 埃が舞う中、レイコは動けずにいるエリカの隣にしゃがみ込んだ。

「……ねえ、どうして。私を、美しいままで死なせてくれなかったの?」

 エリカが恨みがましくレイコを見る。その瞳からは、もはや恍惚の光は消え、ただの傷ついた少女の、重苦しい涙が溢れていた。

「死ぬのは勝手だが、あんな野郎の『作品』として死ぬのは癪だろ」

 レイコは、泥まみれの芋を拾い上げ、エリカの口元に押し付けた。

 エリカは、拒絶するように顔を背けようとしたが、その鼻腔を突いたのは、甘ったるい、しかし泥臭い、生命の匂いだった。

 彼女はためらい、やがて、その芋を一口、強く噛み締めた。

「……硬い。……それに、ひどい味」

「それが生きてるってことの味だよ。お嬢様」

 レイコはエリカを抱き上げた。

 ズタズタの制服。ズタズタの精神。

 しかし、その腕の中にある少女の身体は、男が望んだ「静止した美」などではなく、不格好に脈打ち、熱を帯びた、汚泥にまみれた「生」そのものだった。

 レイコは、鉄条網の中で無様に叫ぶ男を一瞥もせず、廃倉庫を後にした。

 雨はいつの間にか止んでいた。

 だが、夜の闇はまだ深く、彼女たちの行く先を重く塗りつぶしている。

「……レイコさん。私、いつかあなたを殺すかもしれない」

 背中でエリカが、消え入るような声で囁いた。

 レイコは短く、鼻で笑った。

「いいぜ。……それまで、精々その汚い芋を食って、生き延びな」

 湾岸に響くバイクの排気音は、救済の調べなどではない。

 それは、ただ続いていく汚濁に満ちた日常への、冷徹な宣戦布告だった。

(了)

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