三つの手
ドラドラ
三つの手
私は今日、三つの手の感触を思い出している。
同じ人間の手。
それでも、その三つは、まるで別の生き物のように感じられた。
触れた瞬間に、宿している時間が違う。
背負ってきた人生が、手から滲み出てくる。
◇ ◆ ◇
今朝、祖父が亡くなった。
九十一歳だった。
いつも通りの時間に目を覚まし、出勤の準備をする前に携帯を手に取った。
画面には、親からのラインメッセージが表示されていた。
「お爺さんがもう呼吸が弱くなり死にそう」
「これから施設に行く」
「今日は仕事に行ってください」
文面は短く、驚くほど淡々としていた。
事実だけが並べられていて、感情はどこにも書かれていない。
その静けさが、かえって胸に刺さった。
祖父は、一年前の二月、腎臓の数値が正常値の何十倍にも跳ね上がり、そのまま入院することになった。
年齢を考えれば手術は、体力的にも耐えられないだろうと告げられ、施設に移ることになった。
そのときに言われた余命は、半年。
覚悟はしていたつもりだった。
けれど、余命宣告を受けた半年は過ぎ、もうすぐ一年が過ぎようとしていた。
新年に顔を見に行ったとき、祖父はまだ元気そうにしていておせちを食べていた。
まだ大丈夫そうだなと、どこかで、そう思ってしまった。
人は、勝手な生き物だ。
余命を突きつけられても、それを越えて生きている姿を見ると、終わりなんてないことにしてしまう。
だが、一週間前から、祖父は食事を取れなくなった。
あれほど食べることが好きだった祖父がだ。
世界は何一つ変わっていない。
空も、朝の光も、窓の外の景色も、昨日と同じだ。
それなのに、確かに何かが終わったのだと、感じた。
◇ ◆ ◇
仕事に行っていいと言われたが、私は休みを取り、祖父のもとへ向かった。
施設の空気は、いつ来ても独特だ。
消毒液の匂いと、生活の匂いが混じり合って、時間の流れが外とは違っている。
祖父は、静かに口をあけたまま横たわっていた。
触ってあげてと言われ私は、そっとその手を取った。
まだ、完全に冷たいわけではなかった。
冷たいというより、生温い。
体温が、ゆっくりと抜けていく途中の温度。
握っても、握り返してこない。
生きていた頃と同じ形をしているのに、もう返事をしない手だった。
◇ ◆ ◇
物心ついた頃から、祖父は家にいた。
いつも日の当たる窓際のマッサージチェアに座り、テレビを見たり何かを書いたりして、のんびりと過ごしていた。
一緒に出かける事はほとんどなく年に数回、家族の食事会の焼肉か回転寿司に一緒に出かけるくらいだった。
その手は、大きくて、節くれだっていて、少しごつごつしていた。
仕事は大工をしていたと聞くがその姿を見た事はない。
その手が、今は、静かに横たわっている。
生きている間、多くのものを掴み、支え、作り、導いてきたはずの手が、もう何も掴まない。
最初に湧いたのは、悲しみではなく戸惑いだった。
人の手は、こんなにも簡単に、温度を失ってしまうのかと、腑に落ちなかった。
父方の祖母は私が生まれる前に亡くなっていた。
母方の祖父母も死に目に会えず、すでに棺に入った後の姿だった。
そのとき、ふと、別の手の感触が、鮮明によみがえった。
娘が生まれた日のことだ。
出産に立ち会い、助産師に促され、私は小さな手に触れた。
湿っていて、ぬるりとしていて、正直に言えば、少し怖かった。
それまで、命というものを、概念でしか知らなかった。
大切だとか、尊いとか、守るべきだとか、言葉では理解していたが、実感はなかった。
娘の手は、驚くほど小さく、指の一本一本が頼りなく、今にも消えてしまいそうだった。
その湿った手が、私の指に絡みついた瞬間、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
ああ、掴まれてしまった。
この手が、これから先、何十年も生きていく。
私の知らない未来を、この小さな手が掴んでいく。
その現実が、胸に落ちてきた。
祖父の大きな手とは、あまりにも対照的だった。
力も、重みも、刻まれた時間も、何もかもが違う。
それでも、同じ人間の手だった。
生まれたばかりの命の手と、役目を終えた命の手。
その間に、どれほどの出来事が積み重なっていくのだろう。
そして、もう一つは妻の手。
眠りにつくタイミングが同じになる夜、私たちは自然と手を繋いで眠る。
妻の手は、温かい。
娘の手ほど柔らかくはなく、祖父の手ほど大きくもなく、生活の跡がある。
家事や仕事で荒れた手。
それでも、その手を握ると、不思議と呼吸が整う。
恋人だった頃の高揚感はない。
握るたびに胸が高鳴るわけでもない。
けれど、安心感がある。
◇ ◆ ◇
娘の手は、未来を掴もうとしている。
妻の手は、今を生きている。
祖父の手は、すべてをやり遂げた。
同じ人間の手なのに、こんなにも役割が違う。
人は、手で生きているのだと思う。
何かを掴み、何かを離し、誰かと繋がり、時には傷つけ、救う。
言葉よりも先に、手は関係を結んでしまう。
今朝、冷たくなった祖父の手を離したとき、私は思った。
この手も、かつて誰かの小さな手を握っていたのだと。
誰かと手を繋ぎ、誰かを支え、誰かを守ろうとしたのだと。
娘が大きくなったとき、私の手は、どんな存在になっているのだろう。
温かいだろうか。
頼れるだろうか。
分からない。
ただ一つ確かなのは、今この瞬間、私の手の中には、妻の温もりがあり、娘の未来があるということだ。
人は、手を通して、人生を受け渡していく。
そう思いながら、私は今日も、そっと手を伸ばす。
失わないためではなく、繋ぎ続けるために。
三つの手 ドラドラ @astraydoradora
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