第四話 ハイタッチの意味
人生何度目かの入院生活。
だけど白い天井も、薬の匂いも、慣れることはない。
インフルエンザ肺炎で重症呼吸不全と診断された僕は、酸素療法でマスクを着けた。高熱と咽せで水さえ飲み込めず、点滴治療も併せて行った。細い針が血管を貫くのは、痛みよりも怖さで目を逸らす。
暫く何も喉を通らなくてすっかり体力の落ちた僕は、最初の数日間は眠って過ごした。元々十日程の入院予定だったはずが、なかなか炎症が引かず、二週間に延びた。
その間、家には司くんが連絡袋を届けてくれていたらしく、母からその話を聞くのが、ちょっとした楽しみになっていた。
「今日も司くん、連絡帳届けてくれたよ」
「つかさくん……」
「『あきらくん、退院まだですか?』って毎日心配してね。小学生は面会できん決まりじゃけぇ、『元気になったらまた沢山遊ぼうって伝えてください』って」
司くん……一緒に剣道をやっていたのが、遠い日のことのように感じる。
たった二週間のことだけど、僕にとって二週間は、果てしなく、長かった。
その長い空白の間に、目指していた剣道の大会も終わってしまった。
僕はふっと手のひらを見る。ここ数日、ずっと竹刀を握っていない。
これまで毎日竹刀を振っていた僕の手はどこか寂しそうでもあり……同時に、握りしめた感覚が鈍くて、余所余所しい。
……この手で、この体で、また剣道ができるのかな。
僕の瞳に浮かんだ暗い影に、母は遠慮がちに口を開く。
「しばらく、剣道お休みしようか」
「えっ……」
「先生も運動はしばらくは様子見てって言いよったし、今はしっかり休養を取ることも大事だと思うんよ」
「けど……」
「やりたい気持ちはわかる。けど、剣道は心も大事って言うじゃろ。多分……今の晃の心は、ちょっとだけ、下を向いとる」
「……」
「それは悪いことではないんよ。けどね、休むのだって悪いことじゃない。また心と体が元気いっぱいになるまで、暫くおうちでお休みしよう?」
母にそう言われて、視線を落として考える。
きっと、今すぐに剣道は、できない。体力が落ちてふらつく体も、少しだけ下を向いた心も、すぐに元通りに戻るわけではない。
……。
「……うん…………おやすみ、する」
僕が消え入りそうな声で頷くと、母は安堵と悲しみが混ざったような顔で微笑んだ。そうしてこの冬、僕は暫く……無期限で、剣道をお休みすることにした。
◇
退院して三日後。僕はまたマスクをして、久しぶりに兄と一緒に登校する。
教室に着くと、僕を見つけた司くんが目を丸くして飛び込んできた。
「あきらくん! もう体調はええん!?」
「ありがとう。もう、大丈夫」
「ほんま心配しとったんよ。体調悪そうにしとった日から三週間近く学校来んし」
「ごめん……あと、毎日連絡帳届けてくれて、ありがとう」
「どーいたしまして。また元気に戻って来て、
からっと笑う司くんは、やっぱり太陽みたいに見えた。
人気者で、剣道も一生懸命で、眩しい。
その想いが、今はぎゅっと胸を締め付ける。
「なぁあきらくん、剣道もまたできるん?」
「剣道は……」
無邪気な問いかけに、反応が遅れる。暫くおやすみすると自分で決めたはずなのに、言葉が喉に張り付いて出てこない。
「おやすみ……する」
視線を落として呟くと、司くんの気配が変わった。そんな彼は「でも」とはっきりした声で続ける。
「またいつか、戻ってくるんじゃろ?」
司くんの言葉に、なぜこんなにも泣きたくなるのか、わからない。
僕は目を逸らすと「わからん」とぽつりと告げる。その、瞬間だった。
「え……何? ごめん、聞こえんかった」
わざとらしいほどに低いトーンにびくっとするが、僕は視線を合わせないまま続ける。
「剣道は、しばらくは……」
「……聞こえん」
「……っ、じゃけぇ……っ」
ムキになって、だけど言葉を続けられずに顔を上げると、司くんは怒ったような、悲しそうな顔をしていた。
「晃くん、ちょっとこっち
有無を言わせぬ強さで腕を引かれ、連れ出された、屋上へ続く階段。この時間帯は人が少なくて、自分たちの足音だけが静かに響く。
ふっと立ち止まり、振り向いたその顔は真剣なままだ。
「晃くん、剣道やりたいんやったらおれとハイタッチじゃ」
「え……っ」
「体調面でできんのはしょーがない。けど晃くん、今にも辞めてもえぇって顔しとる」
「……」
「違かろ? 晃くん、あんなに頑張りよったじゃろ……! 剣道、好きなんじゃないん!?」
剣道が……好きじゃないわけがない。兄ちゃんに、司くんに、憧れた。
ぼくも、同じようにかっこよくなりたいと、思った。
「好きに……決まっとる……っ」
「じゃあ、わからんなんて言わずに、いつか戻って来いよ! 別にすぐじゃなくてもえぇんじゃけぇ……っ!」
「……」
司くんはそう言って、左手をすっと出す。その手はマメが潰れたのか、真新しいテーピングが施されていた。
「おれさ、一緒に剣道やろうって晃くんに言われたん、うれしくて」
「……」
「そのうち絶対晃くんにも勝ったる! と思っとったのに、晃くん家でも自主練とかしよるし、全然勝てんままで」
「……っ」
「勝手に、ライバルみたいに思っとったんよ」
僕は泣きそうになりながら、その言葉を聞く。
太陽みたいな司くんが、こんな僕を対等な相手だと思ってくれていた。司くんは少し微笑むと、その手を僕の目の前にぐっと突き出した。
「へへ、がんばっとる手、じゃろ。テーピングで見えんけど」
『がんばっとる手』。いつだって、みんな、がんばっていた。
自分の手のひらのマメの跡を、親指でそっとなぞる。ぼくも……がんばっとったじゃないか。それは、決してなかったことにはならないはずだ。
僕は涙がこぼれそうになるのをごしごしと拭いて、その手と強くハイタッチを交わす。人のいない静かな朝の階段に、パシンと乾いた音が響く。
「ほんまは……っ、ぼくだってやりたい……っ! けど……っ、」
「……」
「ぼくは……こんな弱い体じゃだめかもしれんと…………思ってしもぉた」
「……」
「だけど……」
「強ぉなろ、晃くん。一緒に」
司くんの声はどこまでも穏やかで、力強く僕の胸に響く。
「おれは晃くんと一緒に剣道がやりたい」
「……っ」
「じゃけぇ、ハイタッチ。もっかい。一緒にやろう」
「うん……!」
パシンと響く音と共に、手に、交わした熱と痺れの余韻が残る。
その熱は、僕の手のひらで褪せることなくそこにある。
三か月後、三年生の春に、僕は剣道に復帰したのだった。
この手と剣道と――今の僕 はる❀ @Haru_AveMaria
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