第三話 挫折
幼稚園生の頃はしょっちゅう体調を崩していたけど、小学校に上がってからは風邪も軽度で済むことが多く、学校も行けるし、剣道だってできた。
もしかしたら、少しずつ体調も安定してきたんじゃないかと、思った。
……が、思えただけで、注意しなくてはならないことには変わりなかったのだ。
「……こほっ、」
あれから一年経った、二年生の冬。相変わらず僕は学校から帰ってからの自主練を続けていた。学校でも稽古でも司くんとは仲が良く、剣道の稽古がない日でも、学校から帰って来てはいつも一緒に遊んでいた。
剣道の方は何度かマメができては時々潰れ、地域の小学生剣道大会・一年生の部に僕も司くんもそれぞれ個人戦で出させてもらったりもした。……が、練習でできていることも試合ではなかなか思うようにいかず、上手く一本とれたとしても、勝ち進むことはできなかった。
稽古と試合は、違う。形式練習と、大会本番の空気が違うということも。
それを実感した、一年生の大会だった。
自主練だって、ちゃんと相手が前にいると思ってやらないとだめだと、改めて思った。それから、怖がっちゃいけないということも。どうしても一瞬の気後れで下がってしまい、そこを打たれて一本を取られることが多いようなのだ。
練習、あるのみだ。
技術だけじゃない、心も強くならなきゃいけない。……そう決意を新たにした矢先のことだった。
◇
この日は朝から喉の奥の方に、ほんの少しの違和感を覚えていた。乾いた咳と鼻水。だけど熱は無いし、もうすぐ剣道大会もあるから稽古には行きたくて、僕はマスクをして兄と一緒に登校していった。
見上げれば、冬の空は重苦しい鈍色をしていて、枯れ木には霜が降りていた。しかも温暖な瀬戸内では珍しいことに、はらりと雪が舞う。頬に降った冷たい雪は体温で溶け、学校へと急く呼吸が白い息となって消える。
「こほっ、……けほ、」
寒くていつもより少しだけ駆け足の呼吸に、冷たい空気が肺を刺す。その冷たく乾いた空気が、同時に喉を刺激しているようでもあった。
「晃、大丈夫か」
「……だいじょぶ」
「無理はすんなよ。しんどかったら保健室行きんさい」
「ありがと……っくしゅっ」
くしゃみとともに鼻水が溢れて、マスクが汚れる。うわぁ……と顔を顰める僕を見て、隣を歩く兄は同じく「うわぁ……」と苦笑しながらも、ポケットティッシュを差し出してくれた。その手には、しっかりとテーピングが巻かれている。またマメが破れたんかな、と、どこかぼんやり思う僕の視界が突然、くらりと揺らぐ。
「……?」
「どしたん」
「や……なんでもない、大丈夫」
多分、気のせい。……だけど、それが甘かった。
ほんの少しの違和感は、次第に身体の中で大きな異物となってゆく。
校門をくぐり、兄と別れてから暖房の着いた教室へとたどり着くも、なぜか雪の舞う外よりも、寒い。
「あきらくん、おはよー! 今日見たか、雪降りよったな!」
元気いっぱい声をかけてきたのは、太陽みたいな司くんだ。
「雪……降りよったね」
「積もらんかなー」
「ぼく、雪合戦したい」
「えぇなぁ。おれ、かまくら作りたいなぁ、こーんなでっかいの!」
身振り手振りで話す司くんのその言葉に、誰かが「こんな少ない雪でかまくらなんか作れんよ」とツッコみを入れるのが、遠くに聞こえる。そこからその「誰か」と司くんは話し始めるも、どこかぼーっとして内容が入ってこない。
「あきらくん、大丈夫か」
「……え?」
気が付くと、目の前には僕を心配そうに覗き込む司くんの顔があった。
「さっきから咳もしよるし、風邪?」
「……わかんない。風邪……かも」
そう自覚すると、一気に身体が重たく感じる。……寒い。急激に僕を襲う悪寒に、体もカタカタと震えはじめる。
「なぁ、熱あるんじゃないん? 最近インフル流行っとるって母ちゃん言っとったし」
「インフル……」
「保健室行こ。連れてったるけん。な?」
「うん……」
司くんに手を引かれて歩く廊下は、果てしなく長く感じた。朝は確かに熱はなかったのに、そこでの体温計は、三十八度を指していた。
……
ここから事態は一気に暗転する。
早退して病院へ。インフルエンザは陰性。この時にはただの風邪だと言われたが、翌日には四十度まで熱が上がり、僕は水すら喉を通らなくなる。
心配した母に連れられてインフルエンザの再検査をすると、今度はばっちり陽性で、数日間学校をお休みしなくてはならなくなった。
……勿論、剣道も。
「けんどう……しばらく、できない」
事態を受け止めて僕は悲しさが過ったけれど、正直体はそれどころではなかった。解熱剤を飲んでもずっと熱が下がらず、身体がだるくて、咳と鼻水が止まらない。それどころか、浅い呼吸で胸が苦しくて、寒いのに、体中から汗がにじむ。
……このくるしさを、僕は知っている。
布団にくるまったまま激しく咳き込むと、遠い記憶にある恐怖の言葉を思い出す。
『キカンシエン』
『ハイエン』
……やっぱり、これには勝てないんだ。
そう思うと悲しくて、怖くて、涙があふれる。色んな思いが混ざって、呼吸は速く、浅くなる。
はっ……はっ、……うぁ……っ、はぁ……っ、げほっ、げほげほっ、……はぁ……っ、
「晃……あきらっ!」
泣きながら過呼吸を起こしかけたところで、母が僕に気づいて落ち着けてくれた。だけど、落ち着いても胸の苦しさはなくならないし、全身汗だくなのに水が飲めない。
「ぼく……つよくなってない……」
言葉にすると余計に悲しくなって、涙がぼろぼろと溢れた。
「そんなことない。そんなこと、ないよ」
そう言って泣きそうな顔をして握ってくれた母の手は、温かくて、違う涙が一緒に零れた。
「もう一回病院に行こう、晃」
再度連れていかれた病院で受けた診断は「インフルエンザ肺炎」。
風邪にインフルエンザが併発し、免疫が弱った僕の肺は、レントゲン写真の中で真っ白に染まっていた。
「ハイエン」。昔から……僕にとっては、呪いのような言葉だ。
「大丈夫。すぐにきっとよくなるけぇね」
そっと握ってくれた母の手の温度を感じながら、僕の入院生活が始まったのだった。
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