第3話 深夜の秘密査定

深夜一時。

 救護所の天幕テントを叩く雨音は、まるでもどかしい指先が布を掻きむしるような、不吉なリズムを刻んでいた。

 

 オイルランプの芯が小さく爆ぜ、煤けた光が俺の影を歪に引き延ばす。

 

 俺は、泥を啜るような重苦しい沈黙の中で、誰にも見られぬよう医療鞄の底に指を滑り込ませた。

 

 指先に触れたのは、血の通わない紙の冷たさ。

 

 ハミルトンが、自らの命という対価を払ってまで守り抜こうとした「青い封筒」だ。

 

 震える指を抑え、封を解く。

 中から現れたのは、数枚のタイプ紙だった。

 

 本来なら、一国の命運を左右する国家機密に、平凡な経理マンが触れる権利などない。

 

 だが、書類の端に乱雑に書き殴られた「数字の羅列」を目にした瞬間、俺の視界は一変した。

 

(……これは報告書なんかじゃない。兵器の『裏在庫目録』だ)

 

 英文で綴られたそれは、あるドイツ軍高官が、チェコの兵器メーカーから受け取った莫大なキックバックの記録だった。

 

 本来なら国庫に入るべき資産が、不適切なパイプを通じて個人の私腹へと吸い込まれている。

 

 現代の日本で嫌というほど目にしてきた、古典的で救いようのない「粉飾決算」の縮図がそこにあった。

 

(……やれやれ。国家レベルの背任行為か。とんでもない不良債権を掴まされたもんだ)

 

 もしこれが見つかれば、俺の首など一瞬で飛ぶだろう。

 

 だが、経理マンとしての本能が、冷徹に俺の耳元で囁く。

 

 この「帳簿の歪み」は、交渉のやり方次第では、莫大な利益……すなわち俺の「生存権」を買い取るための強力な手形に変わる。

 

 その時、湿った風が吹き込み、天幕の入り口が僅かに揺れた。

 

 俺は即座に書類を鞄の奥へ沈め、眠り続けるハミルトンの脈を診るふりをした。

 

「……まだ起きているのか、少尉」

 

 背後から響いたのは、昼間の憲兵曹長のような粗野な声ではない。

 研ぎ澄まされた刃物のような、冷徹で理知的な響き。

 

 入ってきた男の階級章を盗み見る。大尉――情報部アプヴェーアの人間だ。

 

「軍医少尉。その鞄の中身を検めさせてもらおうか。……これは命令だ」

 

 大尉の視線が、獲物を狙う鷹のように俺の医療鞄を捉えて離さない。

 男の指が、腰のホルスターに添えられた。

 

 俺はゆっくりと立ち上がり、医療鞄を敢えて大尉の前に突き出した。

 

 だが、口から出たのは、先ほどまでの「カタコト」ではない。

 

「……大尉殿。軍規第十二条、および戦時医療法に基づき、患者の所持品管理は軍医の専権事項です」

 

 一分の隙もない、硬質で冷徹なドイツ語。大尉の眉が、驚きで僅かに跳ねた。

 

「情報部が動くということは、このイギリス人が『兵站部の裏帳簿』……シュミット将軍への不正献金記録を持っているという噂は、事実なのですか?」

 

「……貴様、なぜその名を知っている」

 

 大尉の顔から余裕が消えた。

 

「経理屋の目は、数字の不自然な動きを見逃しません。この救護所の予算の三割が、名目不明の輸送費として消えていることも。……それとも大尉殿、あなたもその『損失』の一部ですか?」

 

 俺は、監査のプロが浮かべる冷徹な笑みを向けた。

 

 ここで俺を消せば、既に「帳簿の歪み」を把握している軍医が死に、余計な騒ぎが起きる。

 

 大尉は一瞬、拳を固めたが、やがて忌々しそうに視線を逸らした。

 

「……口の減らない医者だ。明朝、正式な捜査令状を持って出直してくる」

 

 捨て台詞を残し、大尉は闇の中へと消えていった。

 

 背中を伝う冷たい汗を拭い、俺はベッドへ向き直った。

 

 そこには、いつの間にか目を開け、虚ろな視線でこちらを凝視しているハミルトンの姿があった。

 

「……全部、聞こえていたか。ミスター・ハミルトン」

 

 ハミルトンは、掠れた声で英語を絞り出した。

 

「……あの大尉を追い払うとはな。……封筒を返せ。あれは、私の命だ」

 

「いいえ。あれは今のあんたにとって、ただの『不良債権』ですよ。持っていれば殺される。……だが、俺に預ければ話は別だ」

 

 俺はハミルトンの耳元で、拒絶を許さないトーンで囁いた。

 

「あんたの身の安全と、英国への『損出し』。それを俺が保証してやる。代わりに、その情報の『使用権』を俺に譲れ。これはビジネスだ」

 

 ハミルトンの目に、絶望とわずかな希望が入り混じった光が宿った。

 

 泥濘の戦場で、軍医とスパイによる、史上最も汚く、最も確実な「契約」が結ばれようとしていた。

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偽りの軍医少尉 夕凪 @Hans1

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