第2話 深夜の秘密査定

深夜一時。救護所の天幕テントを叩く雨音は、まるでもどかしい指先が布を掻きむしるような、不吉なリズムを刻んでいた。

 

 オイルランプの芯が小さく爆ぜ、煤けた光が俺の影を歪に引き延ばす。

 

 俺は、泥を啜るような重苦しい沈黙の中で、誰にも見られぬよう医療鞄の底に指を滑り込ませた。

 

 指先に触れたのは、血の通わない紙の冷たさ。

 

 ハミルトンが、自らの命という対価を払ってまで守り抜こうとした「青い封筒」だ。

 震える指を抑え、封を解く。

 

 中から現れたのは、数枚のタイプ紙だった。

 

 本来なら、一国の命運を左右する国家機密に、平凡な経理マンが触れる権利などない。

 

 だが、書類の端に乱雑に書き殴られた「数字の羅列」を目にした瞬間、俺の視界は一変した。

 

(……これは報告書なんかじゃない。兵器の『裏在庫目録』だ)

 英文で綴られたそれは、あるドイツ軍高官が、チェコの兵器メーカーから受け取った莫大なキックバックの記録だった。

 

 本来なら国庫に入るべき資産が、不適切なパイプを通じて個人の私腹へと吸い込まれている。

 

 現代の日本で嫌というほど目にしてきた、古典的で救いようのない「粉飾決算」の縮図がそこにあった。

(……やれやれ。国家レベルの背任行為か。とんでもない不良債権を掴まされたもんだ)

 

 もしこれが見つかれば、俺の首など一瞬で飛ぶだろう。

 

 だが、経理マンとしての本能が、冷徹に俺の耳元で囁く。

 

 この「帳簿の歪み」は、交渉のやり方次第では、莫大な利益……すなわち俺の「生存権」を買い取るための強力な手形に変わる。

 その時、湿った風が吹き込み、天幕の入り口が僅かに揺れた。

 

 俺は即座に書類を鞄の奥へ沈め、眠り続けるハミルトンの脈を診るふりをした。

 

「……まだ起きているのか、少尉」

 

 背後から響いたのは、昼間の憲兵曹長のような粗野な声ではなかった。

 

 研ぎ澄まされた刃物のような、冷徹で理知的な響き。

 

 入ってきた男の軍服に刻まれた階級章を盗み見る。大尉――それも、情報部アプヴェーアの人間だ。

「……重症患者ハミルトン、容態、不安定。ワタシ、目、離せません」

 

 俺はわざと、さらに「カタコト」の度合いを強めて答えた。

 

 暗がりに立ち、表情を読み取らせない大尉の目が、俺の背後にある医療鞄を鋭く射抜いた。

 

 直感が警報を鳴らす。

 

 この男は「青い封筒」の存在を、そしてハミルトンがそれを持っていたことを確信している。

「イギリス人の容態はどうでもいい。彼が何か『持ち物』について、不審なことを言わなかったか?」

 

 試すような問い。

 

 天幕の中に、張り詰めた糸のような緊張感が漂う。

 

 俺は無機質な医者の仮面を被り、大尉の視線を真っ向から受け流した。

「……Nothing. He, only, pain.(何も。……彼、ただ、痛がってるだけ)」

 

 自らの鼓動がやけに大きく聞こえたが、声だけは震わせなかった。

 

(さあ、どうする? ここで書類を渡して忠誠を誓うか、それともこの『時限爆弾』を抱えたまま、この男を丸め込むか)

 

 バランスシート上のリスクは最大。

 

 だが、リターンもまた、ここにある。

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