あくしゅ
ドラドラ
あくしゅ
その日、俺は上機嫌で歩いていた。
仕事の下見を終えた帰りだった。
目星はついた。
どれも悪くない。
むしろ、久しぶりに当たりを引いた感覚があった。
うまくいく。
そういう確信は、経験が教えてくれる。
いつもの道、いつもの時間、いつもの雑踏。
すべてが計算どおりで、胸の奥では小さく笑みが浮かんでいる――はずだった。
なのに。
胸の奥に、小石でも挟まったような違和感があった。
説明のつかない引っかかり。
気分は軽いのに、足取りだけが妙に重い。
理由のない感覚ほど、厄介なものはない。
こういう予感は、たいてい外れない。
夕方の商店街は、人の声と生活の匂いで満ちている。
笑い声、呼び込み、子どもの泣き声。
すべてが混ざり合い、日常という名の濁流を作っていた。
その流れの中で、彼女は静かに歩いていた。
白杖。
先端を地面に軽く当て、確かめるように一歩ずつ進む女性。
歳は二十代前半だろうか。
淡い色のワンピースに、控えめな帽子。
視線は虚空を泳ぎ、どこにも焦点を結ばない。
目が見えない。
それだけで十分に人目を引く存在なのに、なぜか俺は、それ以上に彼女から目を離せなかった。
理由は分からない。
顔立ちが特別好みだったわけでもない。
危なっかしい歩き方に同情したわけでもない。
ただ、胸の奥がざわついた。
彼女は商店街の人間とすれ違うたび、柔らかく声を掛けていた。
「こんにちは」
それだけの、ありふれた挨拶。
だが彼女は、必ず右手を差し出す。
「……?」
握手だった。
挨拶を交わす相手すべてに、彼女は迷いなく手を差し出す。
相手は一瞬戸惑い、それでも断れずに、その手を取る。
日本じゃ、あまり見ない光景だ。
知り合い同士でも、そうそう握手はしない。
それを、初対面かどうかも分からない相手に。
不思議な光景だった。
それなのに、誰も拒まなかった。
老人は照れ笑いを浮かべ、主婦は少し驚いた顔で、学生は気恥ずかしそうに。
それぞれが彼女の手を取り、短く握ってから去っていく。
彼女の手は、白く、細く、壊れそうに見えた。
なのに。
その光景を見ている俺の背中には、じっとりと汗が浮かんでいた。
嫌な汗だ。
何かを思い出しそうで、思い出したくない時の汗。
俺は視線を逸らし、足を早めた。
関わるな。
そう、心のどこかで誰かが囁いていた。
彼女の姿は雑踏に紛れ、やがて見えなくなる。
俺の日常もまた、何事もなかったように流れていくはずだった。
◇ ◆ ◇
数日後。
同じ道、同じ時間帯。
また、彼女はいた。
商店街なのだから、同じ時間に同じ顔ぶれがいても不思議はない。
それでも、胸の奥で嫌な音が鳴った。
彼女は一人で歩いていた。
白杖を頼りに、周囲の音へ神経を澄ませながら。
その姿を見た瞬間、逃げ出したくなった。
足が、動かなかった。
彼女の顔が、こちらを向いた気がした。
見えていないはずの瞳が、正確に俺を捉えたような錯覚。
心臓が跳ねる。
「こんにちは」
彼女は、はっきりとそう言った。
俺に向かって。
喉が鳴る。
「……こんにちは」
絞り出すように返事をすると、彼女はほっとしたように微笑み、一歩近づいた。
そして、右手を差し出す。
「握手、してもいいですか?」
握手。
拒否する理由はいくらでもあった。
急いでいる。
用事がある。
知らない人とはしない。
そう言えばいい。
なのに。
体が言うことを聞かなかった。
逃げるべきだと分かっているのに、手が、勝手に伸びていた。
彼女の指先が、俺の手に触れる。
細くて、冷たい。
その感触に、胸の奥が強くざわつく。
「――やっと」
耳元で、彼女の声が響いた。
「やっと、見つけた」
握られた手に、ぎゅっと力が込められる。
次の瞬間だった。
胸に、突き刺さるような衝撃。
冷たい。
次いで、焼けるような熱。
息が詰まり、視界が大きく揺れる。
白杖。
それが、俺の胸を貫いていた。
仕込まれていた刃が、心臓の奥まで届いているのが、はっきりと分かった。
「……あ……?」
声にならない音が、喉から漏れる。
膝が折れ、倒れそうになるのを、彼女が支えた。
――その瞬間。
痛みを合図にするように、記憶が弾けた。
暗い家。
割れたガラス。
叫び。
血の匂い。
呼吸が荒くなる。
揉み合い。
刃物。
床に広がる赤。
殺すつもりは、なかった。
だが、結果は同じだった。
倒れ伏す夫婦の向こう。
階段の陰に、小さな影。
子ども。
見られた。
そう思った。
だが、その目は俺を捉えていなかった。
焦点の合わない視線。
宙を掴むように伸ばされた手。
見えていない。
そう気づいた瞬間、胸の奥に、卑しい安堵が広がった。
立ち去ろうとした、その時。
少女が、よろけた。
転びそうになった。
反射的に、俺は手を伸ばしていた。
支えてしまった。
触れてしまった。
小さな手。
震える体。
息を呑む音。
声は出していない。
ただ、無言で、手を貸しただけだ。
それでも、触れた。
俺は、そのまま逃げ去った。
その感触を忘れたつもりだった。
忘れられていると、思っていた。
「ずっと、覚えていました」
彼女の声が、現実へ引き戻す。
白い手が、俺の胸元で赤く染まっている。
「この手の感触」
息が、できない。
「見えていなくても、分かることはあるんです」
視界が、ゆっくりと暗くなる。
「あなたが、私の手を取ったとき。ああ、この人だって」
彼女は、微笑んだ。
最初に見た、あの穏やかな笑顔と、同じ顔で。
「でも……」
刃を引き抜くことはしなかった。
ただ、あの時と同じように、支えるように手を添えている。
「あの時、手を差し出したのは……少し悪手でしたね」
あくしゅ。
握手。
悪手。
意識が、遠のく。
最後に聞こえたのは、彼女の声。
「さようなら」
白い世界に、沈んでいく。
あの時、手を差し出さなければ。
盗みなんてせず、まっとうに生きていれば。
それが、俺の――
本当の、悪手だったのだろう。
そこで、俺の人生は、一本の手の中で、静かに終わった。
あくしゅ ドラドラ @astraydoradora
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