第54話 名前のない地図
雪原の向こうに、国境を隔てる鉄条網が見えた。
そこを越えれば、戦火の届かない「中立地帯」。
境界線を前にして、俺の足が不意に止まった。
隣を歩くエレーナが、不思議そうに俺を見つめる。
その瞳を見た瞬間、俺の脳裏には、あの白樺の森で彼女と出会った「最悪の始まり」が蘇っていた。
(……一体、いつからだったのだろう。俺がこの女を、狂おしいほどに求めてしまったのは)
最初は、ただの戯れだった。
占領地の通訳官として、自分の中に蓄積された教養を誇示するように、俺は彼女に、かつてのロシア皇族が使っていた気位の高い、美しすぎるロシア語を話して聞かせたのだ。
それは、泥にまみれた戦場には不釣り合いな、あまりに無力で、あまりに高貴な「死語」だった。
だが、彼女は笑わなかった。
俺が放ったその「戯れの言葉」を、彼女は正面から受け止め、絶望に凍りついていた俺の心臓を、その知性で、その眼差しで、静かに射抜いたのだ。
(……そうだ。俺は、自分と同じ『言葉の檻』に閉じ込められた人間を、初めて見つけたんだ)
彼女を愛してしまったのは、彼女が美しかったからではない。
俺が偽造し、粉飾し、隠蔽してきた「醜い言葉」の裏側にある、俺自身のわずかな「正気」を、彼女だけが正しく翻訳してくれたからだ。
この女を救うことは、俺という人間の、最期の尊厳を救うことと同義だった。
「……シュミット? どうしたの?」
「……いや。……ただ、少し昔のことを思い出していただけだ」
俺は懐から、ボロボロになったあの「帳簿」を取り出した。
バビ・ヤール、クルトの文字、ハンス・プラッツの最期。
そして、戯れに始まったはずの、俺と彼女のあまりに重すぎる運命。
俺は帳簿の最後の空白に、ペンを走らせた。
もはや階級も、軍記も、罪の重さも、ここには必要ない。
『エレーナ。……そして、シュミット。……本日、……人間として、この地を去る』
死を訳し、生を編む。
俺は、その帳簿を雪に埋もれた古い郵便受けへと落とした。
記号としての俺は、今、この凍土に死んだ。
これからは、ただの一人の男として、彼女の隣を歩くのだ。
鉄条網を越えた瞬間、東の空から本当の太陽が昇り始めた。
黄金色の光が、血に汚れた俺たちの軍服を照らし、影を長く伸ばしていく。
辛い。……生き延びたことが、これほどまでに申し訳なく、……そして誇らしくて、涙が止まらない。
俺は、エレーナの手を強く握りしめた。
「……行こう。……これからは、……誰の目も気にせず、……自分の言葉で、……君と新しい物語を綴るんだ」
雪原に、二人の、そして小さな子供たちの足跡が刻まれていく。
それはもう、誰にも管理されない、自由で、不格好な「生(Ж)」の羅列だった。
エレーナ。
俺を人間に戻してくれて、……ありがとう。
……さあ、本当の夜明けを、二人で見に行こう。
バベルの選別官 ―SD少尉ハンス・シュミットの独ソ戦史― 夕凪 @Hans1
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