第53話 翻訳の恩返し
「止まれ! 武器を捨てて手を挙げろ!」
街の出口を封鎖していたのは、地平線を埋め尽くすほどのソ連軍、赤軍の歩兵大隊だった。
俺とエレーナ、そして生き残りの兵士たちと孤児たちは、雪原の真ん中で何百もの銃口に囲まれた。
懐には、つい先ほど二人で編み上げた「偽造書類」がある。だが、相手の眼光は、紙切れ一枚で欺けるほど甘くはなかった。
「……貴様ら、どこへ行く。……スパイか? それとも敗残兵か?」
若いソ連兵が、震えるエレーナの肩を乱暴に掴もうとした、その時だった。
「……待て。……その男を放せ」
兵士たちの間を割り、泥にまみれたジープから降りてきたのは、階級章の重い、一人のソ連軍将校だった。
俺はその鋭い眼光に見覚えがあった。
1941年の夏。……激戦のあとの野戦病院。
俺は、捕虜となったソ連軍の兵士たちが処刑されるのを防ぐため、彼らの階級を「非戦闘員」と偽り、軍の帳簿に書き換えてやったことがあった。
目の前の将校は、あの時、俺が「名前」を書き換えて命を繋いだ、あの男だった。
「……あんたか。……相変わらず、……この地の冬は世知辛いな、翻訳家」
彼は、かつて俺が彼に教えた「生きて帰るためのドイツ語」で、静かに語りかけてきた。
将校は、俺が差し出した偽造書類に目を落とした。
プロの軍人である彼が、これを見抜けないはずがない。
だが、彼はその「完璧な嘘」を指先でなぞり、不敵な笑みを浮かべた。
「……検閲完了だ! この一行は、前線の収容所から移送される『解放された市民』の名簿と一致する。……直ちに道を開けろ! 彼らを止めることは、司令部の意向に背くことになるぞ!」
それは、彼が俺に返してくれた、最高の「嘘の翻訳」だった。
兵士たちが戸惑いながらも銃を下ろし、道が開かれた。
死を訳し、生を編む。
俺が彼の横を通り過ぎる瞬間、将校は俺の肩を強く一度だけ叩き、低い声で囁いた。
「……二度と、私の前に現れるな。……今度会う時は、ペンではなく銃を持った敵としてだ。……生きろ、シュミット」
辛い。……敵対する国の男に、これほどまでの恩義を感じて生き延びることは、……己の立場を忘れさせるほどに辛い。
だが、俺の隣で、エレーナが静かに涙を流していた。
俺たちは、赤軍の背中を背に、どこまでも続く真っ白な雪原へと踏み出した。
エレーナ。
世界はまだ地獄の真っ只中だ。……でも、俺たちが編み上げた言葉は、……確かに、この冬を越えるための橋になったんだ。
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