下――

 あいつの、血の滲む努力は近くで見てきたつもりだ。だからあいつの、世界で一番速く走ってみせるという、その想いは受け止めてやろう。

 ただそれでも、私を置いてけぼりにしているこの事実は覆るはずもなく、心の奥で赤黒いどろりとしたものが沸騰する。私は直情的にあいつとの繋がりを絶ってやった。

 携帯の番号を変えて、SNSとか、そういう繋がりもブロックしてばっさり切ってやったのだ。


 そのまま、他の男と恋に落ちてもいいかな、なんて暗い思いが胸をよぎり、大学の友人の誘いのままに合コンとかにも顔を出した。

 けれども、あいつ以上に馬鹿で面白くて、自分の夢に馬鹿に一生懸命な奴はいなくて。私は馬鹿なあいつの横以外を歩く気にはなれなかった。


 それにあいつは、やっぱり真っ直ぐだった。デジタル的な繋がりを断たれているから、アナログな手段として、海の向こうから私の実家に宛ててエアメールを送ってきた。

 やっぱり、あいつのなかの私たちは変わらないままなんだと思うと、あいつを裏切るのは正直気が引けた。


『顔見たら日本を発てなくなると思って、だから会って謝れなかった。本当にごめん。こっちは頑張ってる。アユミはどうしてる? ちょっとだけ、10年だけ待ってて欲しい』


 溜め息交じりに開いた便箋のなかから出てきたのは一方的なそんな言葉。馬鹿なの? 簡単に十年だけって言うけど、全然ちょっとじゃないからね? それだけ待たせるつもりなら、あの時顔くらい会わせてよ。私だって本当は。

 封筒から、はらと一枚写真が滑り落ちた。写真のなかのあいつは、海外の同世代の男の子たちと肩を組んでいて、眩しいくらいの笑顔。中一の夏、あの時に蹴りを入れたあいつの脚は、日に焼けて筋張り、隠しきれないたゆまぬ努力のあとが刻まれていた。


 素直に背中を押してやれなかった負い目もあった。結局、あいつの夢に真っ直ぐな姿を目にしたせいで、


『馬鹿。10年だけ待ってやるから、早く結果残して迎えにこい』


 そう、一度だけSNSでDMを送ってしまった。すぐまたブロックしたけれど。スマホをタップした指が小さく震え、私の心臓は警鐘みたいに喧しかった。

 顔を見たら決意が揺らいでしまうようなあいつが、振り返らないように、前に進むしかないように、退路は断ってやった方がいい。きっと、それでよかったんだ。


 それでも毎年一通届くエアメール。封を切った封筒が、引き出しのなかで山となる。絶対に約束は守るから、絶対に一番になってみせるから。あいつの不器用な手書きの文字を指でなぞる。あいつの言葉が連なって、私のなかに稜線りょうせんを刻んでいく。

 けれど。季節が巡っても、その稜線は雪化粧の姿のままでいる。早くこの雪を解かしてみせてよと。何度も思った。


 二年前の手紙。あいつがスペインのプロチームに所属したと綴られていた。『もう少しでアユミを迎えに行けるから』とも。

 その事実とその言葉が、少しずつ私の中の雪を解かし始めた。あの馬鹿がどんなふうに走っているのか、動いている姿を観て生存確認してやろう。気が付けば中継が観られるサブスクに契約していた。


 時折映像に映るあいつは豆粒みたいに小さかったけど、いつもでも本気だった。チームのエースには程遠い。でも、あいつはあいつなりに、一心不乱に走り続けていた。その姿を観るたび、私の胸の奥がざわついた。

 私はこの胸のざわつきが苛立ちなのか何なのか分からないまま、それでもあいつが汚れた顔で必死にもがいて走る姿から、目を逸らせなかった。


 退路を塞いでやるつもりでいたSNSのブロックも、ひっそりと解除していた。けれど、あいつは競技に打ち込んでいて、その事実に気が付かないままでいる。


 そして。勝手に飛んでいったあの日から六年。クリテリウム・デュ・ドーフィネというフランスの大きなレースに出ると知った。八日間連続で、毎日とんでもない距離を走り続ける大会だ。


 アシストとしてチームのエースを支えるあいつ。この日のレースも、ごく稀に献身的なあいつの姿が小さく映し出されるだけで、有名な選手がステージ優勝を争う。そんなレースになるだろうと、ぼんやり眺めていた。私にももっとその献身性を向けろよ。と思いつつ。


 しかし、私の安いレース予想は簡単に裏切られた。

 レースの序盤から逃げのグループにするりと紛れ、徹頭徹尾、先頭の集団に身を置いていた。映像に抜かれる回数がいつもの比じゃない。顎から汗を滴らせるあいつの姿が、何度も何度も映し出される。そのたび、私の掌に爪が食い込んだ。


『メイン集団は完全に脚を使わず、力を抜いていますね』

『明日以降、総合争いが激化しますからね。逃げグループにタイム差を気にするような選手もいないですし、今日はお休みじゃないですか』


 実況と解説の言葉を聞いて、ひょっとして今日のレース、逃げグループのなかで優勝を争うんじゃないか? そんな期待がちらついて、私の心臓が早鐘を打つ。


 最後の峠。その頂上に至る少し前から、あいつがしきりに無線で何かを話している様子が映る。何だろう。多分、何か起こる。期待と不安の交じった、そんな予感。


『先ほどから頻繁に無線でやり取りをしています』

『これ。もしかしたら、メイン集団にエースが取り残されてますから。プランBで行っちゃうんじゃないですか?』

『あとほんの少しで頂上。そこから長い下りと短い平坦。その先が今日のゴール地点です。期待は……』

『しちゃいますね! 日本人初の区間優勝! いやあ、観たいなあ』


 その言葉を聞いていたかと見紛うタイミングで、あいつが腰を上げて最後の登り坂で抜け出した。ひらひらと揺れる肩は軽やかさを感じさせ、好調であることを脚で示す。


『ここでアタック! 来ました!』

『行け! 行っちゃえ!』

「行け! 行っちゃえ!」


 思わず音になってしまった私の声援が、解説の人とぴたりと重なる。恥ず。


 勢いままに頂上を通過して、ひとり下り坂に突入したあいつ。画面の端のスピードメーターの表示は時速80Kmを行ったり来たり。自転車競技はそういうものだと分かっているつもりでも、いざあいつがそうやって走っているのを目の当たりにしてしまうと心臓に悪い。

 上半身を屈めた姿勢で下り坂をかっ飛んで行く。その姿が真っ直ぐ飛んでいくミサイルみたいに見えて、鋭利なカーブで曲がりきれずに坂の向こうへ、あの日みたいに背中を打ち付けながら転げ落ちる嫌なビジョンを幻視してしまう。ヘアピンカーブのたびに、小さな悲鳴が私の喉をこじ開けてきて外に出る。


『ああ! カーブで大きく膨らんで!』

『危ない! 無茶しないと勝てないですけど大事に! 大事に!』


 あいつは前しか見ていない。ずっとそうやって気持ちだけで突っ走るような下り方をするので、正直、私はもう見ていられなかった。

 じんわりと、嫌な汗が背を濡らす。あいつの無茶を見続けるには、心臓が何個あっても足りない。


「あ」


 カーブ。あいつの自転車の後輪がずるりと滑る。よく分からない管がたくさん繋がれた、病室のあいつの姿がフラッシュバック。私は思わず目蓋まぶたを固く閉じた。


『だ、大丈夫です! 片足を着いて何とか立て直しました!』


 馬鹿。もう嫌だ。優勝なんて要らないから生きてちゃんと帰ってきて。

 それがあいつの夢を踏みにじる言葉だと分かっていても、そう思ってしまう。


『逃げ集団の他の選手はお見合い状態ですか?』

『そうですね。明日以降も総合争いのアシストに回る選手はセーフティに行きたいですし』

『しかも、彼。ノーマークですか?』

『です! それで誰が引くか見合っちゃってます。これ、本当にありますよ!』

『下りの折り返しはあと三つ! このまま行って欲しい!』


 折り返しで鳴る甲高い制動音が、私の心臓を容赦なく突き刺してくる。

 あいつの想いが、強引にあいつの自転車を引っ張って下っているようだ。


『追走ペースアップ!』

『でも、もう下り抜けますよ!』


 最後の折り返し。あいつはようやく流れるように曲がって、残りの下りを直進していく。

 あいつを追うカメラの映像。景色が線のように流れている。


『平坦突入! 追走との差を依然キープ!』

『行ける行ける行ける!』


 あいつがずっと夢想していた眺めが、手の届くところまで近付いている。

 私は祈るように固く手を組む。強張った指の隙間にぷつぷつと汗が滲んでくる。


 弾丸。あいつは必死に身を捻りながらペダルを踏み続ける。

 不細工な弾丸は平坦路を突き進み、風を巻き起こしながらゴールを目指す。


『ゴールまであと少し! ああ! すぐ後ろまで追走が迫る!』


 回す。回す。回す。

 あいつが下を向いたまま我武者羅がむしゃらに踠き続ける。

 あいつの想いが、体を突き動かして乱れたフォームで走り続ける。

 あいつの両脚が、絶対に諦めないと限界を超えても躍動を続ける。

 風を置き去りにして、また新たな風を生む。


『追走! 迫る迫る迫る! スプリント!』


 お願い。すぐそこまで。

 私の想いを振りほどいてまで夢に突き進んだあいつのその夢を。

 どうか。叶えて。


『逃げ切れるか!? 逃げ切れるか!?』

「行って……!」


 追走が並走。

 ゴールラインが眼前に。

 時間が止まって見える。

 あいつがハンドルをぐんと突き出す。

 無音。静止。そのなかで唯一の動体。

 ハンドルを投げたあいつの姿だけが動いて見えた。


 直後。スピーカーから破裂音。

 いや違う。鳴り響いたのは割れた歓声だった。


『達成! 日本人初! 区間優勝の悲願達成!』


 あ。あ。凄い。あいつ。本当にやったんだ。凄いよ。格好いいよ。

 張っていた緊張の糸が弛んで、塞き止めるものがなくなった。私の頬に一筋の涙が伝う。


 ゴールラインを一番に跨いだあいつは、自転車を降りると地面に倒れた。それでも横になったまま無邪気に喜んでいる。

 その姿が。小学生のガキみたいにはしゃぐその姿が、告白の時の、馬鹿で素直で幼かったあの頃の影と重なる。本当、馬鹿。やっぱり、どうしようもなく愛おしい奴。悔しいけど、そう思ってしまう。


 チームの仲間に揉みくちゃにされたあと、肩を借りてながら脚を引きずって歩いていく。


 画面が切り替わると、スポンサーロゴが敷き詰められた壁を背にしたあいつが映し出された。

 頬はけ、額から流れる汗は止まらない。その姿だけで果てのない努力と苦難が見て取れた。


《Alors, racontez-nous votre course d'aujourd'hui.》

《Pfiou... Dans la dernière descente... le goudron fondait... avec la chaleur, ça glissait énormément. J'ai vraiment cru que j'allais y passer.》


『今日のレースどうでした、と。うん。最後の下りで滑って危なかったんだ、マジで死ぬかと思ったんだ。そう言ってますね』

『確かに。あの下りはひやっとしました。暑すぎて道路にタールが浮いちゃったんじゃないですかね』


 実況の人がインタビュアーとあいつの言葉を翻訳してくれている。

 死と隣り合わせだった下りのシーンが蘇る。それでも、あいつはちゃんと生きて戻ってきた。本当に良かった。


《Et pourtant, vous décrochez la victoire d'étape ! C'est magnifique.》

《Merci beaucoup.》


『それでもこのステージ優勝、凄いですね、と』

『いやもう、本当にそうですよ。日本人初ですから』


 あいつの偉業が讃えられているのを観て、私の頬を伝っていた涙はいつしか滂沱ぼうだとなり、膝の上に降りしきる。


《Vous avez un message pour ceux qui nous regardent ?》


『レースを観てくれている人にメッセージはありますか?』


《Euh... Je peux faire passer un message personnel ? C'est possible ?》


『個人的なメッセージでもOK? って、聞いてますね。え、なんでしょう』


《Mais bien sûr ! Allez-y !》

《Ayumi ! Tu regardes ? J'ai gagné l'étape ! ... Veux-tu m'épouser !?》

《Waouh !》


『ええ! 熱い熱い! 皆さん聞きました!? これ、全世界に流れてますからね!』


 全然、意味が分からなかった。


《あ。あいつフラ語分かんない。えー、アユミー。観てるー?》


 観てるよ。

 観てたよ。

 画面の向こうで手を振るあいつと目線が交った気がして。

 とくとく。何かうるさいと思ったら、これ私の心拍音だ。


《俺、日本人で初めてステージ優勝したよ。一番速えぞ。約束どおり、日本に帰ったら迎えに行きます。アユミ、俺と一緒に歩んでくれますか?》


 きっとあの頃みたく、自転車を降りて一緒に歩くと言っているんだと思う。私の奥に甘酸っぱい痛みが駆け巡る。


『選手たちのこういった姿。何度見てもぐっときちゃいます』とか、『努力が実を結んだご褒美ですね』とか。放送席の二人の感慨深そうなコメントが続いている。


 放送の最後は、あいつが笑顔で手を振る、スローモーションの映像。あの頃とちっとも変わらない。ニッと笑った幼い表情が映る。

 暗転した画面。不意に映った私の顔も、釣られて笑っていた。なんとも情けないぐしゃぐしゃの、泣き笑いの顔が、暗くなったディスプレイのなかにあった。


 いつまでもダサい顔をしているのも嫌だと思った。ぐずぐす鼻を鳴らしながらも、気分を変えたくて窓をがらと開いた。

 開いた隙間から柔らかな風が吹き、私の髪を優しく撫でる。遠くなる焦燥。分かってる。もう許してやるって。

 髪を撫でた風はそのまま、机の上の封筒の山をぱたりと崩して、消えていった。


 さて。あいつの帰りを待ってやりますか。

 今日、世界で一番速かったあいつ。

 私のために、そのスピードで迎えに来るんだから。

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そのスピードで。 七理チアキ @shichiri

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