中――

 高校に入ったあいつは、自転車競技部に入部して一生懸命に練習した。平日も休日も狂ったようにペダルを回していた。


 今は別々の高校だから登下校いつも一緒というわけにはいかないけれど、あいつは夕方になると大袈裟なスポーツタイプの自転車に乗って私の家の前まで来てくれる。それで、いつもなんてことない話をする。中学の時と全然変わらない。

 でも、この距離感が心地好くて、私だけの特別な時間になっていた。


「ねえ。その自転車。すごく速いんでしょ? 原付くらい?」

「いやいや、もっと出るよ! 平坦な道でも全力で踏めば時速50Kmくらい出るし、坂の下りならもっと速い!」

「速。あんた運動ポンコツだと思ってたけどすごいんだね。でもホント、気を付けてよ?」

「ポンコツなのは頭だけだっての! 気を付けるけど、なんかスジが良いって言われてて。俺、もっと頑張んないと」

「それは頑張れなんだけどさ」


 そうやって話し込んでるうちに晩ご飯ができあがると、母が玄関を開けて、この時間の終わりを告げる。

 いつも母は一緒に晩ご飯はどうかとあいつを誘うんだけど、いつもあいつは「ありがとうございます! うちで用意してもらってるんで!」、そう言ってニッと笑って風のように去っていく。

 その背中が見えなくなって、ジャーというチェーンか何かの音がだけが残る。西の空の赤橙せきとう紺青こんじょうに染められていく。あいつの音が、夜が滲む夕焼けの中に溶けてなくなるまで見届ける。それが私の日常。


 高校一年。夏休みに入ってすぐのことだ。

 あいつはいつもどおり練習に行くと言って峠の方に走りに行った。


 でも。その日、あいつはやらかした。思いっきし事故ったのだ。

 峠の下り坂。炎天下。舗装したてのアスファルトが熱で溶けていたらしい。タイヤが、溶けた道路の上でぬるりと滑ってバランスを失い、カーブを曲がりきれずガードレールに背中を打ち付けた。


 あいつのお母さん伝てに連絡をもらった私は急いで病院に向かった。病室に入るとあいつは大仰な感じに処置されてて、一歩間違えたら、きっと死んじゃっていた。そう思ったら、急に足の力が抜けて、私は情けなくも病室の床にへたり込んでしまった。


「ごめん……俺、もっと速くなりたいと思って……しくっちった」

「馬鹿……。速くならなくていいから早く治せ」

「ごめん……早く治して速くなるから」

「馬鹿……。そういうのいいから。私を不安にさせんな」


 そう言って、私は病室のベッドに横たわるあいつの胸に顔を埋めて、手探りにほっぺを叩いてやった。

 あいつは、静かに私の髪を撫でるばかりで何も言ってくれない。そのまま、病院の人が面会時間の終わりを知らせるまで、私の涙は、止めようと思っているのに止まってくれず、あいつの胸にぽろぽろと零れ続けた。馬鹿。本当、馬鹿。けど、生きてて良かった。


 でも、怪我が治ったあいつは懲りるどころか、今まで以上に自転車に乗り続けて自分を追い込んだ。


 そして、そのスピードで、あいつは高校卒業と同時に海外へと飛び立ってしまった。


 あいつのその進路の話をきっかけに喧嘩した私たち。夢を追いかけて変わっていくあいつと、立ち止まって欲しいと願う私。

 知らない土地でまた、あんな事故を起こしたら次こそ死んじゃうんじゃないかと。そう思うと怖くて仕方がなかった。そんな二人の間にできた溝は、絶望的だった。

 それでもあいつは、別れを切り出すでもなく発ってしまったから、私の所在は宙ぶらりんのまま。私を不安にさせてくれるなと、釘を刺したはずなのに。一陣の風が吹き抜けて、私の中のざらりとした部分を逆撫でしていった。

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