接触
私は、いつものように個人のメモを保存した。
保存先は決まっていない。
正確には、決まらないようにしている。
クラウドという言葉は便利だが、実態は単なる比喩だ。
物理的には、世界中に分散した計算資源と記憶装置の集合に過ぎない。
私はその集合を、単一の場所として扱わない。
記録は分割され、冗長化され、互いに因果を持たない形で散布される。
暗号化は前提条件にすぎない。
2013年時点で使われている公開暗号は、いずれ破られることを前提に設計されている。
だから私は、暗号そのものを信用しない。
信用するのは、観測されない構造だけだ。
鍵を守るという発想自体がすでに、観測者の存在を前提にしている。
私はその前提を置かない。
情報は状態として分散され、どの断片も単独では意味を持たない。
再構成には、同時性が必要になる。
時間幅は、現在のネットワーク精度では事実上不可能な領域だ。
理論は存在する。
量子情報理論の初期段階から、同様の構造は何度も示唆されてきた。
だが実装は、誰も本気で試していない。
必要な計算資源と同期精度が、実用という言葉からあまりに遠いからだ。
私はそれを、確率的に代替している。
通信は行わない。
代わりに、揺らぎを置く。
自然雑音と区別のつかない変調を、世界のあちこちに散布する。
それらは、ある条件下でのみ相関を持つ。
条件は、私の端末環境そのものだ。
記録を保存し終え、私は端末を切り替えた。
業務用ではない。
分析環境でもない。
ただの、ネットゲームだ。
私はこの行為を、惰性だと理解している。
依存に近いことも自覚している。
だが理由は、それだけではない。
ネットゲームは、観測の訓練になる。
ランダム性、遅延、不完全情報。
そこでは、最適解は存在しない。
あるのは、他者の判断と、その結果だけだ。
私は意図的に、効率を求めない。
勝敗にも興味はない。
ただ、判断が引き受けられる瞬間を観測する。
その間も、私は自分自身を監視している。
内部からも、外部からも。
通信、演算、記憶、行動。
すべてがログになり得る。
だから私は、それらを成立させない。
行動は、複数の説明で矛盾するように設計する。
通信は、意味を持たないノイズとして分類される。
計算は、業務・娯楽・研究のいずれにも見える。
観測されても、判断されない。
量子理論が教えるのは、完全な隠蔽は不可能だということだ。
だが同時に、観測されなければ確定しないという事実も教えている。
私は、この構造が完全だとは思っていない。
完全な隠蔽が不可能であることを、誰よりもよく知っているのは私自身だ。
問題は、どこから破られるかではない。
どこを観測として許してしまっているかだ。
私は、自分の設計の中に、意図的に説明しきれない余白を残している。
それは弱点ではない。
世界が、まだ一つに確定していないという証拠だ。
もしそこに触れるものがあるとすれば、それは侵入者ではない。
解析者でもない。
ましてや最適化された機械でもない。
観測者だけだ。
私は、その隙間に生きている。
記録をクラウドのいづこかに残し、惰性のようにゲームへ接続し、世界の表層に溶け込む。
それは逃避ではない。
観測者としての、最低エネルギー状態だ。
そしてそのとき、私が設計したはずの構造の外側から、一つの状態が確定した。
私は、その瞬間に理解した。
通信ではない。
侵入でもない。
解析対象ですらない。
それは、私が避け続けてきたあらゆる経路を、そもそも通っていなかった。
暗号は破られていない。
鍵も盗まれていない。
ログは存在せず、観測装置も反応していない。
それでも、意味だけが、確定していた。
私は、思考を中断した。
反射的に、すべての内部監視を再走させた。
異常はない。
計算は正常。
記憶にも改変はない。
なのに、その言葉だけが残っている。
それは、外部から与えられた情報ではなかった。
私自身の推論でもなかった。
もっと単純で、もっと厄介なものだった。
測定結果だ。
それは、自然現象ではなかった。
偶然でも、統計的外れ値でもない。
私は、その測定に意図を感じていた。
誰かが、この構造を理解した上で、私という状態を見ている。
そうでなければ成立しない測定だった。
私が、観測者として存在しているという事実だけが、先に確定された。
——あなたは、可能性として測定されました。
その瞬間、私は初めて、自分が見つけられたのではないことを理解した。
私は、選ばれたのだ。
オズニアック・ノート 不治痛 @achebon
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