つむじ風な日常――アイドリング・ダイアローグ
五平
第1話:白煙の沈殿
今日やるべきことは、実のところ三つある。
ラボの空気清浄機のフィルターを最高密度のものに交換し、一分子の雑味も許さない「無」の空間を再構築すること。新作の香水の試作サンプルをすべて破棄し、鼻腔に残った偽りの甘さをリセットすること。そして、このガレージの奥で「不浄」の極みとして鎮座する、三気筒の怪物を呼び起こすことだ。
午前五時。世界がまだ、色を帯びる前の薄明。
俺は、防護服のような白のコートを脱ぎ捨て、オイルの染み込んだ古い革ジャンを羽織った。ガレージのシャッターを上げると、そこにはカワサキ・500SS、通称「マッハIII」が、獲物を屠った後の猛獣のような静寂を纏って立っている。
一九六九年、世界最速を標榜して送り出されたこの機械は、今の時代の基準からすれば、あまりにも野蛮で、あまりにも不完全だ。三つのシリンダー、三本の独立したマフラー、そして不安定なまでの加速性能。それは、緻密な調合を信条とする俺の職業とは、最も遠い場所にある存在だった。
俺は、指先の感覚を確かめるように、冷え切ったアルミの燃料タンクに触れた。
「今日は、あの廃校になった校舎の裏まで、朽ちていく木の匂いを嗅ぎに行くか」
誰にともなく、香りの成分を分析するように呟いてみる。
「いや、そこまで行くには、このマッハの吐き出す毒はあまりに濃すぎる。いっそ、誰もいない埠頭まで全開で駆け抜け、ガソリンとオイルの焼ける『死の香り』を脳に刻み込んで戻ってくるだけで終わらせるか。あるいは……ただこの三つの燃焼室が不協和音を奏でるのを聴きながら、自分の潔癖さが崩れ去るのをじっと見届けるだけで、今日の旅を完結させてしまってもいい」
予定という名の、静かな汚染。
俺の日常は、完璧な調和の中にあった。トップノートからベースノートまで、計算され尽くした香りの連鎖。だが、その潔癖な世界に長く浸りすぎると、俺自身の鼻が、あるいは魂が、本物の「生」を嗅ぎ取れなくなる瞬間がある。
このマッハという機械は、そんな俺の虚飾を、たった一回の爆発で粉々に粉砕してくれる。不完全な燃焼、飛び散る未燃焼オイル、そして周囲を白く塗り潰す暴力的なまでの煙。そこには「調和」など存在しない。あるのは、剥き出しのエネルギーと、破壊的なまでの生の肯定だけだ。
俺はゆっくりと、エンジンの左側に回り込んだ。
空冷二ストローク直列三気筒。シリンダーヘッドに並ぶ巨大なフィンは、熱を逃がすためというよりは、大気を切り裂くための刃のように見える。
俺は三つのキャブレターに備わったティクラーを、一つずつ丁寧に、儀式のように押し下げた。指先に伝わるガソリンの冷たさと、微かに漏れ出した燃料の、あの痺れるような刺激臭。
「……汚してくれ。俺の鼻が、狂ってしまう前に」
キーを捻る。インジケーターの赤が、血のように滲んで灯る。
このマッハを揺り起こすには、右足の一撃にすべてを懸けるしかない。俺はキックペダルを引き出し、その一番重い位置を慎重に探り当てた。
「行くぞ」
全体重を乗せ、地の底まで踏み抜く。
――ドォォッ、ババババン!
一発。
ガレージが、青白い霧の中に沈んだ。
直列三気筒。独特の、左右に揺さぶられるような不規則な爆音。
パパパパッ、ババババッ……。
それは音楽などではない。金属とガソリンが、互いの存在を呪い合いながらぶつかり合う、終わりのない口論だ。三本のマフラーから吐き出される白煙は、瞬く間にガレージを埋め尽くし、俺の視界から清潔な世界を奪い去った。
俺はスロットルを回さず、ただその煙の渦の中に立ち尽くした。
アイドリング。
冷え切ったオイルが、高速回転するクランクケースの中へ吸い込まれ、爆発とともに霧散していくのを待つ。
スロットルを軽く煽ると、車体が左へ、右へとのたうち回る。左右非対称な爆発の連鎖。
シリンダーから立ち上る、焼けたオイルの焦げた匂い。それは、どんな高級なエッセンスも太刀打ちできない、圧倒的な「現実」の匂いだ。
「ああ、これだ」
ヘルメットを被ることも忘れ、俺はその白煙を深く吸い込んだ。
肺の奥が微かに熱を持ち、脳を麻痺させていく。
この不浄。この暴力的なまでの不均一。
これがあるからこそ、俺はまた、ラボに戻って「偽りの香りの調和」を演じることができるのだ。
走り出すか。
それとも、この白煙がガレージの外に溢れ出し、世界を塗り潰していくのを、ただじっと見守るか。
走り出せば、俺は「煙を引く彗星」になれる。
ここに留まれば、俺は「毒を食らう調香師」のままでいられる。
どちらを選んでも、このマッハは俺の潔癖さを、その不透明な煙の奥へと沈殿させてくれるはずだ。
俺は左手で、重く、粘つくようなクラッチレバーを引き寄せた。
ギアを入れる瞬間、指先に伝わる「破滅」への予感と、それ以上に抗いがたい歓喜。
さあ、行こうか。
行き先は、計算され尽くした未来ではない。
ただ、この三気筒の咆哮が、俺の鼻腔を、魂を、真っ白な虚無へと連れ去ってくれる場所だ。
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