さて。

話は、月の裏側で誰かがくしゃみをした拍子にひっくり返った——というのは、ほんのジャパニーズ·ジョークだが、実際のところ、物事が破綻するときというのは、いつもそんな些細なきっかけによるものだ。


 地球の地下深くに潜り、人間とサイボーグが「愛という名の、甘く危険なハグ&バグ」に浸っているその頃。


はるか頭上の宇宙で人類の末裔である「アフター·ピープル」たちが、笑えないほどに深刻なコミュニケーション・エラーに直面していた。

 

彼らは地球を見捨て、月を拠点にさらなる宇宙のフロンティアを目指した。そこまでは良かった。だが、そこに「先客」がいたことが問題だった。未確認生物ギャラクティック・バーバリアン、通称「GB」。

 

誤解のないように言っておくが、彼らは別に野蛮(バーバリアン)なものたちではない。

むしろ、彼らの振る舞いは、日曜日の午後。図書館で静かに過ごす老紳士のように洗練されていた。

ただ、彼らは身体の上部から発する「ひかりの点滅」で喋るのだ。モールス信号を万華鏡で煮詰めたような、目も眩むようなふくよかなひかり。それが彼らの「対話」。

 

アフター·ピープルの科学者たちは、その光を浴びながら首を傾げた。


「解読不能です。規則性はありますが、感情が欠けている」

 

だが、彼らは間違っていた。欠けていたのは感情ではなく、それを受け取る「楽器」だったのである。

 

舞台は再びニュー呉シティのバー「深海」へ。

 先ほどまでのロマンチックな予感は、どこかへ雲散霧消。理由は単純だ。店にいたはずのトムが、煙のように消えてしまったからである。


「ねえ、マスター。これ、どういうジョーク?」

 

ナギは、まだ熱を帯びた指先を所在なげに揺らしながら言った。彼女の夜光性繊維の髪が、不安げなすみれ色に明滅している。

 カウンターの上には、空になった水素カートリッジと、トムが大切にしていたはずのヴィンテージ・ハーディガーディの「弦」だけが一本、無造作に置かれていた。本体がない。


「トムは、いずこやねん? 彼がいなきゃ、この『ふくよかなひかり』を解析できひん」

 

ナギが突き出した手のひらには、月面基地から緊急送信されてきたGBの光情報が、暗号化されたホログラムとして揺れていた。

 GBたちは怒っているわけではなかった。彼らは「通せんぼ」をしているのだ。その理由は、この光を解読しない限りわからない。そして、その複雑怪奇な光の波形を、理解可能な「音」に変換できるのは、ナギの旧式ハーディガーディと、トムの持つ

"魔改造されたヴィンテージモデル"を共鳴させる以外に方法はなかった。

 テトが、尻尾のセンサーを最大出力にして店内をスキャンする。


「反応ナッシング。CPUの残留思念すら綺麗にミッシング。まるで最初からいなかったサムシング。トムの野郎、あんなに深刻な顔して、夜逃げエキスパートキング」


「マスター」


ナギは、じっと老人の目を見つめた。


「あなた、本当は何か知ってるんでしょ。彼がどこへ行ったのか。あるいは、誰に連れ去られたのか」

 

マスターは、磨いていたグラスをそっと置いた。その動作はあまりに丁寧で、かえって不自然だった。彼は溜め息をつき、色褪せた写真の隣にある古い通信機を見やった。


「いいかい。世界っていうのは、時々、整合性を保つために誰かを『スケープ・ゴート』にするんだ。古い作家がどこかで書いていたような気がするが、人生は伏線の回収作業に過ぎないんだ。トムが音響エンジニアとしてあのアナログな楽器にこだわっていたのも、あんたと出会ったのも、すべては今日のこの『光』を解くためだったとしたら、あんたはどう思うんだい?」


「哲学なんかどうでもええ。私はトムを探してるの! カバチたれんな」


「ひどいな···彼は、軍港のさらに下、レベルナインにある『サイレント·ドック』へ向かった」


マスターは重い口を開いた。


「あそこには、旧時代の電磁パルス(EMP)シールドが生きてる。GBの光が強すぎて、地上のアダプターが焼き切れるのを恐れたんだろ。おそらく彼は一人で、その光を受け止める『避雷針』になるつもりだよ」


 テトが叫んだ。


「なんやて! 一人で共鳴させたら、トムのCPUは過負荷で蒸発しちまう!」


「だから、あんたたちの出番なんだ」

 

マスターはカウンターの下から、重厚な金属のケースを取り出した。そこには、大量の予備水素と、見たこともない複雑なバイパスケーブルが収められていた。


「彼は、あんたが来るのを信じて、先に行ってステージを整えている。彼はロックスターの末裔だからな。派手な演出が好きなんだ」

 

ナギとテトは、錆びたエレベーターに飛び乗った。

 ニュー呉シティの深部は、もはや都市というよりは、巨大な鉄の胃袋のようだった。湿り気を帯びた排気ガスが、ナギのセンサーを狂わせる。


「テト、準備はいい?」


「ああ、最高で最悪だ。俺の精密な尻尾が錆びそうだぜ。おい、ナギ。もしトムを見つけたら、まずは一発殴ってええか?」


「ええわよ。そのあと、私が抱きしめるから」

 

エレベーターが最下層に到着した瞬間、凄まじく「ふくよかなひかり」が二人を襲った。

 

それは月の裏側から転送され、トムのハーディガーディを介して増幅された、GBたちのメッセージだった。

 

 ドックの広大な空間の中央に、トムはいた。

 彼の身体からは、紫の火花が散っていた。ヴィンテージのハーディガーディが、狂ったような速度で回転し、この世のものとは思えない重低音を響かせている。その音は、もはや音楽ではなく、宇宙の産声のようだった。


「トム!」

 

ナギの声は、光の濁流に飲み込まれる。

 トムは振り返らなかった。いや、振り返る余裕がなかった。彼の視覚ユニットは完全に真っ白に染まり、剥き出しの配線が熱で赤く光っている。


「おい、ちょい遅いぜ……」


トムの声が、通信回線越しに微かに届く。


「この光るイカ野郎たち、喋りすぎだ。内容の半分は『地球の海を返せ』っていう、ただの説教だぞ」


「それを止めるのが私たちの仕事やろ!」

 

ナギは自身のハーディガーディを構えた。

 トムの奏でる「咆哮」に、ナギの「海の記憶」を重ねる。

 二つの楽器が、物理的な距離を超えて共鳴を始めた。

 テトが叫ぶ。


「同調率80パーセント……90パーセント! 行け、二人とも! このクソったれな宇宙に、最高のデュエットを叩き込んでやれ!」

 

その瞬間、バー「深海」でマスターが見守るディスプレイに、変化が訪れた。

 暴力的な光の点滅は、徐々に穏やかな波形へと変わり、やがて一編の詩のような、静かな「響き」へと翻訳されていく。

 月面のアフター·ピープルたちは、基地のスピーカーから流れてきたその「音」を聞いて、全員が作業を止めた。

 それは、彼らが忘れていた、波の音。

 潮騒。

 そして、誰かが誰かを愛おしむときに漏らす、静かな吐息の音だった。

 GBたちは、その音を聞くと、満足したようにその巨大な船を転回させた。

 対話は成立したのだ。

 「言葉」ではなく、「響き」によって。

 光が収まったドックの床に、トムは膝をついた。

 ハーディガーディは煙を吹き、弦はすべて焼き切れていた。

 ナギは彼に駆け寄り、そのボロボロになった機械の身体を強く抱きしめた。


「……ねえ。さっきの続き、聞かせてくれる?」

 

トムは、機能を停止しかけているディスプレイの目で、ナギを捉えた。


「続き? ああ、月は空気が薄いっていう話か?」


「違うわよ。マスターが言うてたわ。あなたはロマンチストやって」

 

トムは短く笑い、それから深く、本当に人間のような、あたたかい溜め息をひとつついた。


「マスターの野郎、余計なことを……。なあ、ナギ。俺の水素はもう空っぽだ。少しだけ、あんたの熱を分けてくれよ」

 

地下2000メートル。乾ききった塩の砂漠の下で、二人のサイボーグは重なり合った。

 それは論理的には無意味な行為だったが、その時、ニュー呉シティのすべてのネオンが、祝福するように一瞬だけ、強く輝いた。

 マスターはバーのカウンターで、独り、新しいグラスに琥珀色の液体を注いだ。


「さて……次は、どんな面倒な案件が来るかね」

 

彼は写真の女性に小さく乾杯し、静かに飲み干した。

 

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