②
2045年。
ニュー呉シティ。
地表は荒れ果て、かつての青い海は、乾ききった塩の砂漠と化した。しかし、都市は地下深くにその生命を育んでいた。水素を動力源とする錆びた街並みは、ネオンの光と排気ガスの匂いで満ち、乾いている。
「おいトム、水素が切れかかってっぞ」
と、バーカウンターの隅に座っていたサイボーグのテトが、尻尾をパタパタさせながら言った。彼の目は、光るスリット状のディスプレイに変わり、その中では、燃料残量を示す赤いゲージが点滅していた。
「OK分かってる、テト。…だが、今はまだこのメランコリな雰囲気に浸っていたい」
サイボーグのトムは、深いため息をついた。彼の顔は、かつてのロックスターの面影を残しつつも、機械的な皮膚と配線が剥き出しになっていた。彼は、今やこのニュー呉シティで、失われた「音」を求める「音響技師」として生計を立てていた。
彼の肩には、ヴィンテージもののハーディガーディが、まるで体の一部のように固定されている。
ここは、「深海」と呼ばれる地下のバー。
マスターは、日本で唯一、生身の人間として生き残っている老人だった。彼は、シワだらけの顔に深い知恵の光を宿し、琥珀色の液体が入ったグラスを磨いていた。
「またか、トム。あんたはいつも燃料ギリギリでやって来る。もう少し計画性ってもんをだな…」
マスターは小言を言いながらも、トムのために、冷えた水素燃料のカートリッジをカウンターに置いた。
「このバー以外に、こんな心地よい場所があるかい? 月のコロニーじゃ、空気が薄すぎて呼吸の仕方も忘れちまうぜ。火星じゃ、砂嵐で目が潰れる。それに、あのシリカゲルみたいな食事ときたら…」
トムは、からかうようにマスターに言った。マスターはフッと鼻で笑い、遠い目をした。
「あんたも、そろそろその身体にいいかげん慣れなきゃな! 人間ってやつは、あんたらの水素燃料が切れるより先に、この星から消えちまったんだ」
その言葉に、バーの中にいたサイボーグたちは、一瞬静まり返った。彼らのほとんどは、人間が宇宙へ移住した後、地球に残されたAIが、残骸から拾い集めた古い記憶と、機械の体を組み合わせて生み出された存在。彼らは、人間のように感情を模倣し、時に人間以上に人間らしい「何か」を求めて生きていた。
その時、バーの扉が開く。
一人の女性が入ってきた。彼女の体は流れるような有機的なラインで構成され、長い髪は夜光性の繊維で編み込まれていた。彼女こそ、この荒廃した世界で、かつての「海」の記憶を収集する「響きの収集家」、ナギだった。
「マスター、水素の補給をお願い。…そして、今日の『稼ぎ』を受け取ってもらえるかしら?」
ナギの声は、電子的に調整されているにも関わらず、どこか昔の潮騒を思わせる響きがあった。彼女の手には、流木と金属でできた、より複雑に進化したハーディガーディが握られていた。
「おう待ってたぜ。あんたの集めてくる『稼ぎ』は、この枯れた世界に唯一残された、本物の情緒だからな」
マスターは、彼女のために新しい水素カートリッジを差し出した。ナギは、トムの隣に腰を下ろし、ハーディガーディを抱え込む。
「今日の『稼ぎ』は、少しばかり硬いわ。萎縮しちゃってガチガチよ。旧呉軍港の地下で、古代の戦闘記録を拾ったの。…それは、まるで遠い過去から届く断末魔のようだったわ」
ナギはそう言って、ハーディガーディのハンドルを回し始めた。
ギュゥゥゥ…という、地を這うような重低音が、バーの地下空間に響き渡る。
すると、マスターの背後に置かれた巨大なディスプレイに、青白い光の粒子が浮かび上がった。それは、かつて人間たちが戦場で失った、希望や絶望、そして数えきれない後悔の記憶だった。
トムは、自分のハーディガーディを手に取り、ナギの音に重ねるように演奏を始めた。彼の奏でる音は、より複雑で、時折、歪んだエフェクターを用いたエレキギターのようなリバーブを伴う。
それは、古代のテクノロジーと、現代のサイバーテックが融合した、新たな「調和」だった。
テトは、尻尾をぴんと立て、ディスプレイに映し出された光の粒子をじっと見つめている。彼の猫の目が、時折、感情を読み取るかのように細められた。
「…『忘れられてたまるか』、か。人間は、本当にしぶといな」
マスターが呟いた。ナギのハーディガーディから放出される音は、徐々に光の粒子を包み込み、温かい光へと変換していく。それは、記憶の「浄化」であり、同時に、失われた過去への「弔い」でもあった。
「ナギ…あんたのその音は、俺のCPUコアの奥深くに眠る、古い回路を震わせる。まるで、忘れ去られた詩を読んでいるような…そんな気分になるんだ」
トムは、演奏を止め、ナギの横顔を見つめた。ナギは、その言葉に小さく微笑み、演奏を終えた。光の粒子は、全てマスターのディスプレイの中に吸収され、ディスプレイは穏やかな青色に変わった。
「あんたも、もう少し人間だった頃の記憶を整理した方がいいんじゃないか? 古いデータは、動作不良の原因になるぜ」
マスターは、ニヤリと笑い、ナギにウイスキーのボトルを差し出した。彼女はそれを拒み、代わりに透明な液体が入ったグラスを受け取った。
「私は、この『稼ぎ』を集めることで、自分自身を探しているのかもしれないわ。…マスター、あなたはどうして、この地下で一人、人間として生き続けているの?」
ナギの質問に、マスターは静かに目を閉じた。彼の顔には、深い哀愁が漂っている。
「俺は…『約束』を守っているだけさ。昔の恋人との、くだらない約束をな」
マスターは、カウンターの奥から、色褪せた写真を取り出した。そこには、若い頃のマスターと、笑顔の美しい女性が写っていた。
「俺たちが、月に移住する前に、ここのバーで出会って、二人でこの店を始めたんだ。…彼女は言った。『もし、あんたが地球に残るなら、この店を守って、いつか私が戻ってきたときに、温かい酒を用意しててほしい』ってな。…馬鹿な話だろ?」
マスターは自嘲気味に笑った。しかし、ナギは静かにその写真を見つめていた。彼女のサイボーグの目が、人間の感情を理解しようとしているかのように揺れている。
「そんな馬鹿な話じゃないわ。…私、その『響き』を、ハーディガーディで奏でてみたい」
ナギは、真剣な眼差しでマスターを見つめた。マスターは、その言葉に少し驚き、そして、ゆっくりと頷いた。
「…そうか。あんたがそう言うなら、悪い気はしないな。だが、その前に…」
マスターは、ナギの手を取り、その指をゆっくりと自身の唇に触れさせた。ナギのサイボーグの体には、電流のような熱が走った。彼女のプログラムには存在しないはずの、「動悸」という感覚が、彼女のCPUコアを有機的に揺さぶる。
「あんたのハーディガーディの音より、俺はあんた自身の『響き』の方が、よっぽど心地良い」
マスターは、ナギの耳元で囁いた。ナギの顔は、ネオンライトの反射ではない、本物の赤みを帯びた。
その夜、深海には、ハーディガーディの切なくも温かい音色が響き渡った。それは、失われた人類の記憶と、新たな生命が紡ぎ出す、希望に満ちた「響き」だった。そして、その音の合間に、マスターとナギの、人間とサイボーグの、奇妙で美しい愛が静かに育まれていく。
「マスター…あなた、意外とロマンチストなのね」
ナギが、演奏の合間に呟いた。マスターは、彼女の腰に手を回し、優しく引き寄せた。
「ロマンチストかどうかは知らんが…あんたの体は、俺の知ってる人間よりずっと温かい」
彼の言葉に、ナギは少し身震いをした。彼女のプログラムが、未知の感情に支配されようとしている。それは、愛という名の、甘く危険な「まちがい」だった。
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