送り日
何しろ彼女を思い出す者などいない。だから私も、もう彼女の名前すら憶えていないし、夭折の
盆の三日目は、島のあちこちから豚骨と野菜を煮炊きした懐かしい匂いが漂って、ネリヤカナヤに戻りゆく祖霊たちへのはなむけに、もとい久しぶりに顔を見せに来る親戚の子らのために、果物やオードブルなどを並べて親戚一同の夜宴が開かれる。この家も仏間と居間の間の襖を外して長いちゃぶ台を二つくっつけて並べ、ごちそうを置いていて親戚の集まる準備が着々と進んでいた。線香の煙と共に天井へ立ち上った私は、もう顔も名前も覚えていない親族たちが入れ代わり立ち代わり食材を持ち込んだり、宴の支度を手伝ったりするのをぼんやり眺めていた。毎年見ているはずの彼らの名前は何といったか。
「あい、チサおば久しぶり。覚えてるね」
「チサばあば、遊びきたよー」
「おばあ、ウチのこと分かる?」
変わりないか、今年も会えてうれしいと握られた手を、ほとんど条件反射で握り返す妻はしかし、すぐに興味の失せたように顔を逸らして、アレヌタルヨ、と呟く。
生きて自分を気にかけてくれる彼らのことを、妻はほとんど覚えていないのだろう。ただ、顔を覗き込んでくる者たちの面影に私の前妻の影がないかと怯え、視界の他から漂う線香の煙たさや床のきしむ音に、私の影を探している。書斎で写真を眺めながら、古傷を開いて眺めるように思い出に浸る私が腹立たしかったろうか。妻の記憶の中の私は、夜の縁側で管を巻いているのではなく、狭い書斎に籠っているのだろうか。
~〇~
「チサばあば、私たちお墓行ってくるからね。今日ヘルパーさん来ないけど、あと五分くらいでおばさん来て一緒に留守番してくれるから」
ほら行くよう。妻の世話をしている若い母親が、声を張って自らの娘を呼んだ。同時に、私は提灯の一つにぽっと灯った。熱でくらくらゆらめく先で、妻がこちらをじっと見ている。妻の口元がふと柔らかくなった気がして、それを確信するより先に薄青い火袋は上げられてしまった。
湿った熱を孕んだ暮れ前の空は淡い桃色に染まり、たなびく薄雲がこがねの水平線に接してとろけて燃え上っている。少し涼しい潮風が斜陽とともに
墓地にはすでに人が集まっており、線香と献花、少しの酒のにおいの立ち込めている。集落やその出身者たちは、めいめいの親族の墓に手を合わせていた。とはいえ皆、大体の家と何かしら縁があるので、自分たちが世話をしている墓だけでなく墓地を拝んで回っている者も多い。私をここまで連れて来た子孫の母娘もまた、私の墓に拝みに来た人々とあいさつを交わしながら墓の酒を入れ替え、月桃の葉の上に落雁を供えて準備をした。落雁はニライカナイへ還る祖霊の弁当で、私が若い頃は米と
墓の周りに落ちていた枝葉を軽く掃いていた母親が、自分の娘の姿のないことに気づいて辺りを見回した。すぐに数人の子らが黒々とした墓標の影を縫って駆けまわっているのを見つけて、墓地の奥の林に近づこうとするのを「こらっ」と止めた。
「盆の山にはお化けが出るよ、ほら戻って」
危ないからと強く叱られ、娘は小さな唇の端をしょんぼり下げた。とぼとぼこちらに戻って来る幼い姿の後ろ、木々に昼顔の蔦の絡んでカーテンのようになった木陰の奥にもうひとり、子どもの影があった。ただの影だが、私には弟だとすぐに判った。影が残っているのは当然だ。御伽噺の子どもはまだ、語り継がれているのだから。それを可哀そうに思っていると、ふと私の灯った提灯に、線香の白梅の香が絡みついて甘く匂った。今この時も、妻は私を思い出しているような気がした。
「はい、おてて合わせて。また来てねってお祈りして」
ぺち、と柔らかな手を不器用に合わせる音がして、昇る煙が
「じーじ、ばーば、また来てね」
娘は円筒の御影石を仰いで高らかに言った。母親は目を伏せて静かに手を合わせた。この子らは、私のことなどもう知らない。それが淋しく、どこか嬉しい。
短くなった線香から、昇る煙が夜風に絡み幽かな白梅の香は流れて、海の果てには大きな孤月が顕れた。凪いだ水面に光が差して、
潮時だ。線香が低くなるごとに、私は灰とともに風に乗って海へと駆けた。いつかただの一条の風、一灯の明かりとなって、全て解けてしまうその時まで、私は私のままにこの島を
線香の灯が消えた。全てが藍色の柔らかな薄闇に染まり、集落の方から私たちを送り出す賑々しい夜宴が聞こえる。墓標に零れて冷えた灰が、暗い潮風に抱かれて
灰の海風 ニル @HerSun
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