中の日

「おはようございますチサコさん。あら、ご先祖様をお迎えしたんですねえ」

 盆の二日目の午前中に訪問介護の中年女のヘルパーが来た。居間と仏間の間の鴨井に下げられた提灯を見て目を細め、祭壇に線香を立てに向かう。曾孫と玄孫は、このヘルパーと入れ違いで墓守に出て行った。

 ヘルパーは、朝と夕にやってきて曾孫の女だけでは行き届かない諸々の世話をする。私は曾孫が朝に立てた線香の残り香とともに居間を漂い、妻の清拭の様子を眺めていた。ヘルパーは妻の体を丁重に丁寧に、それでいて艶かしいところなどひとつもなく、美術品の手入れでもするように淡々と清めていく。


 今日もいいお天気ですよ、身体を拭いたら換気に窓を開けましょうね。ヘルパーの呼びかけを聞いているのかいないのか、妻は眠そうに瞬きをするばかりだ。くすんだ目は胡乱でどこも映していない。けれど、歯の抜け切った唇が巾着袋の口を閉めたように力を込めて閉じられている。何もかもが不自由になっても、その身体の中に妻がまだいるのだと分かった。そんな妻のもどかしさが、私にはよく分かった。

 私が自宅で療養していた時は、身辺のことはすべて妻が世話してくれていた。入浴も、食事の介助も、下の世話まで全て。


 私は施設に入所してもよかったが、妻の方が聞かなかった。ついには私が寝たきりとなり入院を余儀なくされるまで、妻は私にかかりきりであった。私はそれが嬉しいどころか、屈辱にすら感じていた。

 ヘルパーが吐き出し窓を開けた途端、風が居間に流れ込んできた。ぬるい気流に乗って、私は仏間を吹き抜け、締め切られたドアの隙間から埃っぽい書斎に入った。白い塵が、嵌め殺しのアーチ窓から差した日射を受けて光っている。四帖ほどの小部屋の両の壁には本の敷き詰められた書棚、その上から二段目には、立ち並ぶ背表紙の前に写真がいくつか立てられている。色褪せた家族写真から、生まれたばかりの子や孫の写真、私が大学時代に撮った白黒写真まで。埃と黴の臭いが暑さでむせ返るほど充満している以外は、私が使っていた頃から何も変わらない。


 妻は結婚後も家と子供のことをこなしながら、しばしばはたの前に座った。私との結婚は玉の輿だなんだと集落では評判で、妻が内職をする必要はなかったが、時間を見つけては縦糸と横糸を重ね合わせて反物に草花や水面を織り込むことを好んだ。内気で控えめな性分は結婚前から変わらず、むしろ拍車がかかったような気さえした。

 妻となっても母となっても、彼女は家族以外と繋がることがほとんどなかった。わりに、私が家の外の話をすると、たとえ愚痴だろうと嫌な顔一つせず聞く。特に加掛麻の短い冬を覗いて、彼女は夜更けに書斎にいる私をよく縁側に誘った。子が進学で島を離れた頃からは日課のようになっていた気がする。今日はどうでしたかと、自分から尋ねることも少なくなかった。つまらないだろうと言っても、そんなことはないと、もっと話してくださいと笑った。私は、彼女と世界の鎹であったのかもしれない。

 庭の百日紅の枝葉がそよぐのを耳に、私はまるでラジオのようにたらたら管を巻く。彼女は夜風に目を細め、時折私の空になった切子の器に酌をしながら、ただ話を聞いている。その時間が私は好きであった。その時間を壊したのは私だった。


~〇~

「梨花さんからお昼ご飯も頼まれてますから。それまでに、こっちのお皿は洗っておきますからねえ」

 はきはきした呼びかけがドアを貫き、埃と一緒に生前の思い出の内を浮遊していた私をはっとさせた。私はどうも、書斎のドア越しに聞こえる女の声に敏感であった。

 子が島の外で所帯を持ち始めた頃、妻はしばしば、私が書斎に籠っている間に一人で泣いていることがあった。理由は分からない。初めから分からなかったのか、思い出せないのか、それすらも。

物思いを中断して書斎を出ると、彼女は途端に啜り泣く息を殺して、何でもないように台所に立ち始める。どうしたのかと尋ねても黙り込んで、何でもないんですと言って私から遠ざかるのだ。

 どれだけ言葉を尽くしても、彼女は瞳を揺らして戸惑うばかりで、やがては愛想笑いで私の話を受け流した。はじめは彼女が呆けはじめたのかと思った。しかしすぐに違うと気づいてしまった。変わったのは私であった。


 いつしか、私が何を発しても伝わらなくなって、それがどうにももどかしくて、そして認めたくなかったが恥ずかしくて、ことある毎に妻を怒鳴りつけていた。用意された食事は、熱すぎるぬるすぎる味が濃い薄いとにかく理由をつけて床に叩きつけたし、ボタンを掛け違えれば髪を引っ張ってベッドの手すりに顔を打ち付けた。今、彼女の右目のきわにはその時の打撲痕が茶色い痣となって残っている。

 それでも彼女は私の世話を止めようとせず、胸に溜まった澱が沸騰して噴きあがるのを堪えられなくなる私に反比例して、彼女は涼しい顔で薄く微笑むことが増えた。その微笑に私は安らぎをおぼえ、また畏れてもいた。


 いつの間にかアーチ窓から差す陽が灰色に翳り、やがてばらばら大きな音を立てて水滴が窓に叩きつけられていった。我が家が見る間に雨の帳に覆われてゆく。慌てた足音と、勢いよく窓を閉める音がドア越しに届いた。雨音滲み込む部屋の空気は重く、もう失った身体が幻肢痛のように冷えて気怠い。今日が中の日でよかった。送りの盆に降る雨は、ネリヤカナヤへ還るしるべをくゆらせてしまうから。


この集落には、こんな昔話がある。

 ある家に双子の兄弟がおりました。兄は健康でしたが、弟は身体のあちこちが不自由で、病気がちでもありました。父親は来る日も来る日も働いて薬を買う金を稼ぎ、母親は来る日も来る日も弟の世話看病につきっきりでした。それでも、兄ばかりが健やかに育ち、弟は家の外に一歩も出ることができません。

 そして双子が六つになった年の盆、弟はご先祖様に手を引かれ、ネリヤカナヤへ旅立つことになりました。家族はみんな悲しんで、弟を連れて行かないでくれと願いました。

 月の神様チチヌガナシがこれを憐れんで、親子の別れを引き延ばそうとその日の夜に雨を降らせてネリヤカナヤへの道をとざしたのです。だから送りの盆に雨が降る日は、どこかで誰かが、別れを惜しんでいるのでしょう。

 誰かの祈りの結晶のような、雨の盆にまつわる御伽噺だ。でもあくまでそれは御伽噺で、寝物語で、みんなの願いでしかない。ほんとうのところは、弟が七つになる前にネリヤカナヤへかえることができれば神様になれるから、誰も訪ねて来ることのないひどい雨の盆の宵、アンマーお母さんがひっそり弟をネリヤカナヤへ送り出したのだ。


 雷が遠くで啼いた。

私ははたと我を取り戻した。また少し私が削がれて、雨天の草露と線香の残り香とともに満ちる有象無象の祖霊と交じりはじめている。御伽噺のもう一つの結末は、誰が騙ったものだろう。

いずれにしても、弟の首を強く強くにぎり締めた白い指は、きっと弟を神様にさせてやりたいというアンマーの優しさだったのだと思う。私はそう思う。

では私の世話をする妻の手のぬくみは、どうだったのだろうか。

いや、思い出すのは止めておこう。私の汗を拭き、乾いた寝巻きを着せる手の優しさが、憐れみでなく愛であったと信じたままにしておきたいので。


 ばん! 

 雷鳴とは別の、大きな音がした。帰宅した小さな娘が、書斎のドアを開けたのだ。勢い余ったドアが壁にぶつかり、衝撃で書棚の写真が倒れた。そのうち一つが落下して、二つ結びの丸い頭に当たる。天井の隅から埃の塊が、うつぶせになった写真立ての上にゆっくりゆっくり着地した。

「こおら! そっちは勝手に入っちゃダメでしょ」

 サイレンのような泣き声で駆け付けた母親が、そう諫めながら子を抱き上げた。埃っぽくてうら淋しい小部屋が途端ににぎやかになった。母親は子を宥めながら、倒れた写真立てを元に戻し、最後に床に落ちたものを拾い上げた。自分の頭をさすり続ける娘の潤んだまなざしが、母親の手元に落ちる。


「これ、じいじ?」

「じいじじゃないよ、チサばあばの旦那さん」

 片腕に抱かれた娘が、母親の手元の写真に写る男を指さした。大学時代の私だ。モノクロの写真でも分かるほど鮮やかに咲き誇る桜並木の下で、誇らしそうに笑う私と、はにかんだ上目遣いを向ける女がぴったり寄り添って写っていた。この女は――――

「これ、チーサーばあ?」

 娘は次に、小さな指で写真の中の女の顔をつっついた。母親はくすりと表情を綻ばせ、自分の娘の頭に頬刷りをしながら写真立てを書棚に戻す。

「これはチサばあばじゃないよー」

この女は、私の妻だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る