第4話 バベルの沈黙

【1:死の行軍、西への漂流】

アザマトを埋めたその日から、俺たちの行軍は「撤退」ではなく、ただの「逃走」に変わった。

1945年春。ソ連軍の猛追を背に、俺たちはポーランドからドイツ本国へと、崩壊する戦線を西へ西へと這いずり回った。

「旦那、道はこっちでいいのか?」

残された数人の兵士たちが、縋るような目で俺を見る。

俺の手元には、略奪した不正確な地図と、現代の知識という名の「死の予報」しかなかった。

「……西だ。アメリカ軍かイギリス軍に捕まる以外、俺たちに生きる道はない」

道中、目にしたのは地獄の縮図だった。

逃げ遅れたドイツの避難民、首に「敗北主義者」の札をかけられて吊るされたドイツ兵。そして、俺たちのような外国人部隊を「目撃者」として始末しようとするSSの残党たち。

俺たちはソ連軍から逃げ、味方であったはずのドイツ軍からも逃げ、ただの野良犬として荒廃した大地を駆けた。

【2:言葉の剥奪と偽装】

ある廃村の地下室で、俺は仲間に命じた。

「……軍服を脱げ。その『RONA』の腕章を今すぐ焼き捨てろ」

「何を言ってるんだ! これを捨てたら俺たちは何者でもなくなる!」

「そうだ、何者でもなくなるんだ。それが生き残る唯一の道だ」

俺はナイフで、自分の腕にある忌まわしい白地の十字をむしり取った。かつては誇りの象徴であったはずのそれは、今や絞首台への招待状でしかない。

代わりに、戦死した無名の雑兵から剥ぎ取った、所属も階級も判然としないボロボロの作業着を羽織った。

「いいか、これからはロシア語を話すな。俺たちは言葉を知らない、東方から連れてこられただけの雑役夫だ。……喋れば死ぬと思え」

俺は、自分自身の流暢なロシア語を喉の奥へ封印した。多言語を操る俺が、生きるために選んだのは「沈黙」という名の迷彩だった。

【3:エルベの断絶】

1945年4月後半。ついに俺たちはエルベ川の近郊まで辿り着いた。

川の向こうには、整然と並ぶオリーブドラブ色の車両が見える。アメリカ軍だ。

だが、その手前には、絶望の濁流が渦巻いていた。

川を渡ろうとする避難民や敗残兵を、後方から迫るソ連軍の重砲が容赦なく粉砕していく。

「行け! 泳いで渡れ!」

俺は仲間の背中を押し、自らも氷のような川に飛び込んだ。

背後で誰かが叫ぶ声がした。かつての仲間の悲鳴か、それとも復讐に燃える赤軍の勝鬨か。俺は振り返らず、ただ西の岸辺を目指した。

【4:冷たいオリーブドラブ】

泥まみれで対岸に這い上がった俺の目の前に、一足の磨き上げられた軍靴が止まった。

見上げると、そこには栄養の行き届いた顔で、ガムを噛みながら俺を見下ろすアメリカ兵がいた。

「……Surrender(降伏だ)」

俺は両手を上げ、泥を吐き出した。

アメリカ兵は俺の汚れた格好と、記章のない肩を見て、鼻で笑いながら英語で言った。

「また一人、迷子の『東方の猿(オスト・トルッペン)』だ。どこの馬の骨かも分からん。……おい、英語は話せるか?」

俺は、一瞬の迷いもなく首を振った。

「……ナパーム……メディック……」

わざとたどたどしい、知能の低い敗残兵を演じる。

ここで流暢な英語を話せば、即座に重要人物としてリストに載り、ソ連への捕虜交換の最優先対象になるだろう。

言葉を支配してきた俺が、言葉に殺されないために、言葉を殺す。

それが、俺がこの地獄で学んだ、最も高度で最も惨めな生存戦略だった。


【5:鉄柵の中の死刑宣告】

アメリカ軍の捕虜収容所。鉄条網の向こう側では、毎日数百人単位で名前が呼ばれ、トラックに詰め込まれていた。

行き先は「東」。ソ連占領地域だ。

俺は収容所の外壁近くで、ジープに寄りかかるアメリカ軍将校たちの会話を盗み聞きした。

「……明日までに、あと二千人だ。スターリンは『裏切り者』の返還を急がせている」

「大尉、中には自殺を図る連中もいる。自分たちが殺されると分かっているんだ」

「放っておけ。これはヤルタでの決定事項だ。我々の仕事は、リスト通りに荷物を積み込むことだけだ」

「荷物」。その単語を聞いた瞬間、俺の奥歯がガチガチと鳴った。

沈黙という迷彩は、もはや意味をなさない。このまま「名もなき雑兵」として扱われれば、自動的に東の処刑場へ送られるだけだ。

俺は泥を払い、立ち上がった。

かつて捨てたはずの「言葉」を、最も鋭い刃として研ぎ澄ましながら。

【6:バベルの解禁】

俺は、リストをチェックしていたアメリカ軍の少佐の前に歩み出た。

兵士が銃を向け「戻れ、ロシア公!」と怒鳴るが、俺はそれを無視し、完璧な、磨き上げられた**キングズ・イングリッシュ(英国式英語)**で語りかけた。

「少佐。そのリストに私の名を書き込む前に、一つだけ検討すべき事項(ファクター)があります」

少佐のペンが止まった。周囲の空気が凍りつく。泥にまみれた敗残兵の口から、自分たちよりも高潔な英語が飛び出したのだから。

「……貴様、何者だ?」

「私はカミンスキーの通訳でしたが、それ以上に『ベルリンのSS本部』と『東方戦線司令部』の間で交わされた、ソ連軍内部の潜入工作員のリストを暗記しています。……そして、今後貴国が対峙することになる、ソ連軍の無線暗号の癖(くせ)についても」

俺は間髪入れず、今度は高地ドイツ語で続けた。

「……もちろん、ドイツ軍がポーランドの地下に隠した、ソ連に対する『焦土戦術用』の集積所の位置も、いくつか私の頭の中にあります。殺すには、あまりに惜しい情報だとは思いませんか?」

【7:呪われた生存】

数時間後。俺はトラックの荷台ではなく、アメリカ軍の防諜部隊(CIC)の尋問室にいた。

俺の目の前には、温かいコーヒーと、真っ白な報告用紙が置かれている。

「……信じられん。お前のような男が、あんな野蛮な旅団にいたとはな」

将校が呆れたように言う。

「私はただの道具でした。言葉という、便利で残酷な道具です」

俺は、現代の歴史知識から「近いうちにアメリカが必要とするであろう、ソ連の情報」を断片的に、そして魅力的に翻訳して提供し続けた。

「私は、貴方たちのために働けます。東の言葉も、西の言葉も、地獄の言葉も知っている」

結果として、俺は「ソ連への引き渡しリスト」から消去された。

代わりに、俺の身分は消え、書類上は「戦死」とされた。

俺は自由を得たのではない。**「名前を捨て、死ぬまで他者のために言葉を紡ぐ影」**になる契約を、悪魔と交わしたのだ。

【8:エピローグ:沈黙の向こう側】

数十年後。

俺はアメリカ、あるいは西ドイツのどこかで、静かな老後を送っていた。

鏡に映る老いた男は、あの泥濘のワルシャワを歩いていた少年と同じ瞳を持っているとは思えない。

俺は誰にも真実を語らなかった。

アザマトのこと。カミンスキーのこと。自分が犯した、翻訳という名の加担。

俺がこのまま死ねば、この世から「地獄の真実」はまた一つ消える。それでいいのだ。

言葉は、人を救うにはあまりに無力で、人を殺し、欺き、生き延びるにはあまりに便利すぎた。

俺は夕暮れの空を見つめ、かつて少年兵に教えた、あの最後の嘘(言葉)を、今はもう誰もいない部屋で呟いた。

「……西へ行けば、暖かい場所がある」

その場所が、本当に存在したのか。

それとも、あの雪の中で死んだ彼が見た夢の中にしかないのか。

通訳兵である俺にも、その「真意」だけは、今も翻訳できないままでいた。

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バベルの焦土 ―カミンスキー旅団、通訳兵の絶望― 夕凪 @Hans1

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