第3話 物件選び
次の日の朝は、思ったより普通に始まった。
目覚ましの電子音。
カーテン越しの柔らかい光。
昨日、あれだけ考え込んだのが嘘みたいに、世界は何事もなかったかのように回っている。
鳥の鳴き声、湯気の立つポットの音、トースターの焼ける匂い。
何も変わらない、やけに平穏な日常。
ただ一つ違うのは――
**今日は「家を見に行く日」**だということだった。
「準備できた?」
リビングに降りると、母がコーヒーを淹れながら軽い調子で声をかけてくる。
「できてないって言ったら中止になる?」
「ならないわね」
即答。
「……だと思った」
水の落ちる音だけが間に残る。
その時、玄関の方からコツコツと控えめな足音がした。
ドアが開く音。
「おはようございます」
遠坂紬が、きちんとした声音で頭を下げる。
制服ではなく、淡い桜色のワンピースに、薄い灰の羽織。
袖口から覗く手首が白く、スカートより少し長いその裾が、歩くたびに軽く揺れて見えた。
耳元には――あの赤い紐のリボン。
光を受けて、ひとすじだけ朱に染まる。
「お、おはよう」
視線が合った瞬間、軽く会釈して、すぐに目を逸らす。
どうしてだろう、たったそれだけで息が詰まる。
思わず昨夜の会話を思い出す。
遼の「覚悟決めろ」という声。
紬の「デートをしましょう」という言葉。
ぎこちない沈黙のまま、母が明るく間を壊した。
「じゃあ、出発しましょうか!」
父――桜庭 恒一が渋い声で鍵を響かせる。
その手並みは、どこかいつもより機嫌がよさげだ。
◇
車で向かったのは、通っている高校から電車で二駅ほどのエリア。
都心にほど近い住宅街。静かで清潔感があって、駅前には小さな書店とカフェが並ぶ。
「せっかくなら学校に近いほうがいいでしょう」
遠坂家の父・正臣さんが助手席から穏やかに言う。
「通学時間が短いと生活に余裕が出ますからね」
「そうだな」
父が相槌を打つ。
「まぁ、その分、二人で過ごす時間も増えるわけだ」
……言い方。
隣を見ると、紬が耳までほんのり染めていた。
ほんの小さな笑みが、その頬に浮かんでいた。
最初に案内されたのは、低層マンションの三階。
新築で、白と木目を基調にした部屋。
玄関の扉を開けた瞬間、ほんのり新しい木の香りがした。
「こちら、二LDKになります。リビングが十畳で、寝室が二部屋ですね」
不動産会社の担当がきっちりとパンフレットを差し出す。
午前の陽射しが差し込むリビング。
大きな窓。バルコニーに小さな植木鉢のスペース。
紬がカーテンレールを見上げて、そっと呟いた。
「……光が綺麗ですね」
その横顔が、淡く照らされているのを横目に見る。
「通りも静かですし、環境は良いと思います」
父が冷静に言う。
「そうですね。……けどちょっと新しすぎるかも」
「新しすぎる?」担当が少し意外そうに眉を動かす。
「落ち着かない、というか家っぽくない気がして」
紬が、ほのかに頷いた。
その反応に父は小さく笑って「なるほどな」と呟いた。
部屋を出て、車に戻る途中。
手にしたパンフレットの端が風にたなびく。
隣で歩く紬が、ふと小さく言った。
「新築より、少し古い建物のほうが、落ち着く気がします」
「紬らしいな」
「そう、ですか?」
「いや、なんか。ピカピカより、静かって感じが似合う」
「……そうですか?」
頬が少し赤くなった紬が、目を逸らす。
◇
二件目は、駅から徒歩十五分ほどのマンション。
外観は少し古いけれど、エントランスの手入れが丁寧だった。
「こちらはリフォーム済みです。キッチンが広いですよ」
その言葉を聞いた瞬間、紬の瞳が僅かに動いた。
「……広い」
「料理好きなの?」
「はい。お料理は……好きです」
声が少し照れている。
その返答に母がすかさず乗った。
「それならいいじゃない。大和は味噌汁の作り方すら危ういんだから」
「いや、そこまでじゃ――」
「この間出汁の袋ごと鍋に入れたの誰?」
「……俺です」
紬が口元を覆って、小さく笑った。
キッチンの奥は、白いタイルが光を反射して清潔感がある。
リビングへ続く扉を開けると、南向きの窓が広がっていた。
紬が窓辺に立ち、外を見ながら言う。
「ここ……朝が気持ちよさそうですね」
「早く起きられる自信は?」
「あります」
「俺はない」
「じゃあ、起こしますね」
そんなやり取りをして、妙に胸が温かくなる。
ほんの些細な言葉なのに、二人で日常を語ることができた気がした。
◇
三件目は、閑静な住宅街の中にある二階建ての一軒家
外壁の塗装がやや剥がれていて、雰囲気はあるが年季もある。
階段を上る途中、廊下が狭く、すれ違いざまに肩がかすかに触れた。
「……すみません」
「いや、大丈夫」
言葉はそれだけ。
けれど心臓の音はなぜかやかましい。
部屋に入ると、空気が静かだった。
「ここは……音が全然しませんね」
紬が耳を澄ませたように呟く。
「ちょっと古いけど、落ち着く」
部屋の隅に置かれた小さな窓。そこから風がゆっくりと入って、カーテンを揺らす。
「家賃的にもいい感じです」担当が笑顔を浮かべながら言う。
「? ああ、言っていませんでしたね。一括です」
父と正臣さんが迷わず頷いた
「?」
「え?」
「?」
「あ、ああそうでしたか」
「大丈夫です。問題ありません」
どちらの声かは聞かずともわかる。
その響きに、思わず目を瞬かせた。
“この人たちの世界は俺とは違う”――そんな現実を、妙に実感する。
「……なんか、いろいろ心配いらなそうだな」
小声で呟くと、隣で紬が少し笑って答えた。
「うちも、似たようなものです」
「似てるのか? それ」
「さぁ……」
その笑い方が微妙に照れていて、それだけでまた胸が跳ねた。
◇
最後に見たのは、住宅街のはずれの低層マンション。
外観からして少し古く、でも手入れが行き届いている。
中に入ると、ほんの少し甘い木の匂いがして、床はすべすべの無垢材だった。
小さなダイニング。
コンパクトなキッチン。
二つの洋室。
「……ここ、静かですね」
紬が小さく息を吸った。
僕も頷く。
「他の部屋みたいに派手じゃなくて、落ち着くな」
「ですね」
紬はリビングの窓を開けた。
春の風がふわりと流れ込み、彼女の髪を揺らす。
「ここなら、朝……一緒に出る時間も、同じになりそうです」
それは何気ない言葉。
けれど、あまりにも自然で、あまりにも未来形で――。
聞いた瞬間、心の奥に柔らかく波が立った。
「……いいかもしれないな」
紬が振り向いて、小さく微笑む。
「はい。好きかもしれません」
「理由は?」
「静かですし……帰ってくる場所、って感じがします」
その言葉に、胸の奥がじんと温まった。
父と正臣さんが軽く視線を交わし、ほぼ同時に頷く。
「じゃあ、ここにしよう」
「いいと思います」母と麻衣子さんも笑顔で応じる。
決定は、あっさりだった。
けれど、そのあっさりが妙に現実を感じさせる。
エントランスを抜けて外に出たとき、日は少し傾きかけていた。
鳩の声。
遠くの公園から子供たちの笑い声。
春の風はまだ冷たいのに、心の中だけ少し暖かい。
「大和くん」
振り向くと、紬が立っていた。
「今日は……ありがとうございました」
敬語。でも、声には小さな熱が乗っている。
「一緒に……選べて、よかったです」
「……俺も」
たったそれだけの会話なのに、言葉がやけに重く感じた。
紬は小さく会釈して、柔らかく微笑んだ。
その髪を揺らす風の先、赤いリボンが夕陽を受けてきらめいた。
家を選んだだけ――のはずなのに。
この瞬間から、何かが確かに動き出した気がした。
“同棲”は、もう「予定」じゃない。
ゆるやかに、でも確かに、始まる前提の未来になっていた。
胸の中に、昨夜の声が蘇る。
覚悟決めろ。どう転んでも、逃げ道はねぇぞ。
その言葉が、春の空気と混ざってやけに鮮明だった。
ーーーーーーーーーーーーー
夕方。最後の物件で「ここだな」と決まったあと、
桜庭夫妻と遠坂夫妻は、どこか満足げな表情で書類を鞄にしまった。
「これで一安心ね」と麻衣子さんが言う。その声が春風に溶ける。
紬は玄関先で手提げバッグを抱いたまま、改めてリビングを見回していた。
その部屋がすでに“これから帰る場所”であるかのように。
エントランスを出たあと、みんなで近くのカフェに立ち寄った。
薄曇りの午後。窓越しの光が柔らかく、カップの縁から立ち上る湯気がゆらめく。
「お疲れさま、ふたりとも」
父がブレンドを一口飲んでから、僕と紬を順番に見た。
「少し早いけど、春の区切りだ。新しいスタートの記念に――ほら」
手渡されたのは、封筒一つ。
黄色い封筒の端が、うっすら擦れている。
「これ……?」
「開けてごらん」
紬と顔を見合わせながら封を開けると、中から出てきたのは――
紙のチケット、二枚。
「遊園地の……?」
「そう。今度の春休み限定イベントらしいの」
母が楽しそうに微笑んだ。
「桜並木のライトアップが綺麗なんですって。」
紬が、ぽかんとしたようにチケットを見つめる。
「チケット実物って珍しいですね……」
ぽつりと漏らした声が、どこか優しくて。
いや、この人たち
俺は小さく息をついた。
「……あのさ、勝手に人の心読むのやめてくんない?」
母が軽く首を傾げる。
「何のこと?」
「いや、なんでもない」
どう考えても、昨日あたりから俺の頭の中、全部筒抜けになってる気がする。
紬がくすっと笑った。
「でも、嬉しいですね」
「え?」
「……こういうの、家族じゃなくて、ふたりにって」
その言葉に頬が熱くなる。
洗練されたカフェの照明よりも、その笑顔のほうがずっとまぶしい。
父がわざとらしく咳払いをした。
「ま、青春の記念に使えばいい」
「え、いや、それって――」
「どっちが誘うかは任せる」
その言葉に、自然と紬の視線がこちらに向いた。
“どっちが誘うかは”――。
窓の外では、オレンジ色の陽光が少しずつ沈み始めていた。
春の風の気配が街路樹を揺らし、花の匂いがかすかにカフェの中まで流れ込む。
「……じゃあ」
紬が小さく息を飲むのがわかった。
「どうしました?」
「よかったら……一緒に行きませんか」
声はとても静かで、それでも、しっかり届いた。
まるで鐘の音みたいに、心の奥まで響いた。
「……はい」
紬は少し恥ずかしそうにうつむいて、その髪の隙間から赤いリボンがのぞいた。
「春の遊園地……楽しみですね」
その赤が、カップの縁の湯気よりもずっと柔らかく揺れていた。
座っているだけなのに、胸の鼓動が追いつかない。
“ただのチケット”――
そのはずなのに、
紙を一枚手にしただけで、世界が少し違って見えた。
あのリボンみたいに、
穏やかで、それでいて解けかけた“約束の色”が、
再び繋がった気がした。
夕陽のガラス越しに映る紬の横顔が、
そっと春の光を宿していた。
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「あれ、言ってなかったっけ? 二人、許嫁だから」「あ、あと同棲ね」――高1最後の登校日、幼馴染一家との食事会で親に爆弾を落とされました さまたな @SAMATANA
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