02
翌週、一ノ瀬凛の立場は地に落ちていた。
「どういうことだ一ノ瀬! お前が担当していた『秋季キャンペーン』の企画案、競合他社がそっくりそのままリリースしてるじゃないか!」
朝礼のフロアに、係長の怒声が響き渡る。
一ノ瀬は青ざめた顔で直立不動のまま、唇を噛み締めていた。
「……データの管理は徹底していました。漏洩などあり得ません」
「じゃあ何だ、向こうが偶然同じものを作ったとでも言うのか? エースだ何だと持て囃されて、気が緩んでいた証拠だ!」
係長の唾が飛ぶ。周囲の社員たちは、腫れ物に触るように視線を逸らすか、あるいは「いい気味だ」と薄暗い笑みを浮かべていた。
俺は自分の席で、死んだ魚のような目を装いながら、その光景を眺めていた。
(……くだらない)
漏洩させたのは一ノ瀬じゃない。
係長だ。
あいつが昨夜、銀座のクラブで酒に酔い、ホステス相手にタブレットで企画書を見せびらかしていたのを俺は知っている。その店には競合他社の営業も出入りしている。そこから漏れた線が濃厚だ。
自分の失態を部下に押し付け、トカゲの尻尾切り。よくある話だ。
「申し訳、ありません……」
一ノ瀬が頭を下げる。
その震える手先が、スカートの裾を握りしめているのが見えた。
親指を隠している。きっと今すぐにでも、口に含んで噛み砕きたい衝動に耐えているのだろう。
一七時三十分。
俺はいつものようにPCを閉じ、席を立つ。
「古時計さん、今日も定時ですか? 一ノ瀬があんなことになってるのに、手伝ってやろうとも思わないんですか?」
後輩の冷ややかな声を背に受けながら、俺は「俺にできることなんてないよ」と力なく笑って退社した。
***
オフィスを出て、俺は駅前のネットカフェに入った。
完全個室のブースに入り、ハイスペックPCの電源を入れる。
ここからが、本業だ。
俺は持参したUSBメモリから自作のツールを展開し、黒いコンソール画面を立ち上げる。
キーボードを叩く指は、昼間の三倍の速度で走った。
「……まずは、場所の特定からか」
会社のサーバーログへ裏口から侵入し、係長の社用携帯のGPS履歴を洗う。
昨夜二十一時。場所は銀座八丁目、高級クラブ『ルナ』。
次に俺は、その店舗周辺のネットワークにアクセスした。店内の防犯カメラシステム。セキュリティはザルだ。
モニターに、昨夜の店内の映像が映し出される。
VIP席でふんぞり返り、泥酔している係長の姿があった。
隣には派手なドレスのホステス。係長は自慢げに鞄から会社支給のタブレットを取り出し、画面を彼女に見せつけている。
「……馬鹿が。画質が良すぎて企画書のタイトルまで丸見えだぞ」
俺は映像の時間を記録し、キャプチャを保存する。
だが、これだけでは「誰が他社に流したか」の証拠としては弱い。俺はさらに、隣に座っていたホステスの特定にかかった。
店の出勤簿データと顔認証を照合。源氏名は『レイナ』。
彼女のSNS、それも友人のみが閲覧できる裏垢を特定し、昨夜の投稿を掘り起こす。
そこには、こんな投稿があった。
『客のおっさんが企画書見せてきたんだけどw。これ鈴木さんが欲しがってたやつじゃん。あとでこっそり教えてあげよっと。チップ弾んでくれるかな?』
ご丁寧に、係長のタブレット画面の写真付きだ。
決定的な証拠。
係長の承認欲求とセキュリティ意識の欠如が招いた、あまりにお粗末な自爆だった。
「……よし。材料は揃った」
俺はそれらの断片的なデータを丁寧にパズルのように組み合わせ、一つの報告書へと昇華させる。
『件名:秋季企画情報漏洩に関する内部調査報告(重要)』
添付ファイルには、GPSログ、防犯カメラの映像データ、そしてホステスのSNS魚拓。
言い逃れのできない事実の刃を突きつける。
送信元は匿名のアドレス。宛先は、コンプライアンス室と専務取締役の直通アドレスだ。
エンターキーを叩く。
送信完了のバーが伸び切るのと同時に、俺は大きく息を吐いた。
「……これで首の皮一枚は繋がるだろ」
一ノ瀬のためではない。
ただ、無能な上司がのさばる組織の腐敗臭が鼻についただけだ。
そう自分に言い訳をして、俺はブースを出た。
***
翌日。事態は一変していた。
朝一番で係長が専務室に呼び出され、真っ青な顔で戻ってきたかと思うと、そのまま私物をまとめて姿を消した。「体調不良による休職」という名の謹慎処分だ。
一ノ瀬への疑いは晴れ、フロアには奇妙な静けさが戻っていた。
昼休み。
俺はコンビニのおにぎりを食べ終え、人気のない非常階段の踊り場で缶コーヒーを飲んでいた。
ここは俺の聖域だ。誰も来ない、止まった時間だけが流れる場所。
そのはずだった。
ギィ、と重い防火扉が開く。
入ってきたのは、一ノ瀬凛だった。
「……やっぱり、ここにいた」
彼女は息を切らしていた。俺を探して、いくつかの階を回ってきたらしい。
俺はコーヒーの缶を揺らす。
「何か用か? 仕事なら、定時内に頼む」
「とぼけないでください」
一ノ瀬が一歩、踏み込んでくる。
「専務にメールを送ったの、三ツ矢さんですよね」
俺は表情を変えず、肩をすくめた。
「何の話だ? 俺は昨日、ネカフェでマンガを読んでただけだ」
「送信されていたファイル、見せてもらいました。あんな完璧な構成、システム部の人間でも作れません。……それに」
一ノ瀬の瞳が潤み始める。
張り詰めていた糸が切れたように、彼女の強気な仮面が崩れていく。
「……私、怖かった。もう終わりだと思った。また、全部私のせいになるって……」
彼女は俺の胸元に歩み寄り、スーツのラペルをぎゅっと掴んだ。
見上げると、その目はすでに理性を失いかけていた。
幼児のような、飢えた目。
「三ツ矢さん。……お願い」
言葉にするまでもない。
俺は溜息をつき、飲み干した空き缶を床に置いた。
そして、右手の人差し指を差し出す。
一ノ瀬が飛びつくように、その指に吸い付いた。
「ん、ちゅ、ぅ……っ」
非常階段のひんやりとした冷気の中、彼女の口内だけが灼熱のように熱い。
前回よりも深く、貪欲に、彼女は俺の指を求めた。
舌が指の腹を愛撫し、上顎に押し付け、喉の奥へと誘う。
ちゅぷ、じゅる、という湿った音が、コンクリートの壁に反響する。
彼女はもう、自傷行為をしていない。
その代わり、俺という鎮痛剤に完全に依存し始めていた。
彼女の唾液が俺の指を濡らし、絡みつく。無防備な顔で、一心不乱に指を吸う「エース」の姿。
それは背徳的で、どうしようもなく扇情的だった。
十分ほど経って、ようやく彼女の吸引力が弱まる。
名残惜しそうに唇が離れると、俺の指先から銀色の糸が引いた。
「……落ち着いたか」
「……はい」
一ノ瀬は熱に浮かれた瞳のまま、俺の胸に額を押し付けた。
そして、俺の左手首をそっと握る。
動かない、古い腕時計。
「どうして、隠すんですか」
彼女の声が震える。
「こんなに凄いのに。私なんかよりずっと仕事ができるのに。どうして『古時計』なんて呼ばれたままなんですか」
俺は冷たい壁に背を預け、天井を見上げた。
「……俺の時間は、あの日から止まったままだからな」
誰にも話したことのない言葉が、自然と口をついて出た。
一ノ瀬の体温に当てられたせいかもしれない。
「五年前のクリスマス。俺は仕事人間だった。今の、お前みたいにな」
一ノ瀬が顔を上げ、俺を見る。
「大きなプロジェクトを任されて、有頂天で。妻との約束も破って、会社に泊まり込んだ。……妻が、プレゼントを持って俺を迎えに来ているとも知らずに」
交通事故だった。
雪が降っていたその日。彼女は俺の会社の目の前で、トラックに撥ねられた。
俺が病院に駆けつけた時には、もう彼女は冷たくなっていた。
その手には、俺に渡すはずの箱が握りしめられたまま。
「俺が殺したんだ。仕事なんていう、くだらないもののために」
俺は腕時計の、ひび割れたガラスを親指で撫でた。
一七時三十分。あいつの命が消えた時刻。
「だから俺は決めたんだ。もう二度と、仕事に人生を売ったりしない。定時で帰って、何もない時間をただ消費して死んでいく。……それが、俺の贖罪だ」
重苦しい沈黙が、階段に降り積もる。
一ノ瀬は何も言わなかった。
ただ、俺の左手首を、両手で包み込むように握りしめた。
彼女の手のひらの熱が、冷え切った時計の金属を通して、俺の肌に伝わってくる。
「……三ツ矢さんは、幽霊なんかじゃありません」
一ノ瀬が、潤んだ瞳で俺を射抜く。
「だって、貴方の指は、こんなに温かい」
彼女はそう言うと、俺の左手首――止まった時計の文字盤に、そっと口づけを落とした。
まるで、止まった時間を再び動かそうとする魔法のように。
俺は何も言い返せなかった。
ただ、非常階段の闇の中で、彼女の体温だけがやけに眩しく感じられた。
「定時退社の無能」と笑われる俺ですが、裏では会社を救い、非常階段ではしごできの後輩に指をしゃぶられています。 衛士 統 @Kouta_SF
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。「定時退社の無能」と笑われる俺ですが、裏では会社を救い、非常階段ではしごできの後輩に指をしゃぶられています。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます