「定時退社の無能」と笑われる俺ですが、裏では会社を救い、非常階段ではしごできの後輩に指をしゃぶられています。

衛士 統

01

 十七時三十分。


 定時を告げるチャイムが、殺気立ったオフィスに場違いなほど軽やかに鳴り響く。

 その音が、俺にとっての号砲だった。

 書きかけのメールを下書き保存し、PCをスリープモードにする。背もたれにかけていたジャケットを羽織り、鞄を掴む。

 一連の動作に迷いはない。まるで機械仕掛けのルーチンだ。


「……おい見ろよ。また定時だ」

「さすが古時計さんだな。自分だけ時間が止まってやがる」


 パーティションの向こうから、棘のある囁き声が鼓膜をかすめる。


 聞こえないふりをして、俺は席を立った。

 一八〇センチを超える身長のせいか、どうしても社内では目立つ。だから俺は、わざと背を丸め、くたびれた中年サラリーマンの空気を纏うようにしている。


 三ツ矢湊みつや・みなと。三十二歳。


 企画一課の係長補佐という肩書きはあるが、実態は「やる気なし・責任逃れ・定時退社」を貫くお荷物社員だ。


 ついたあだ名が古時計。

 時代遅れの無能、という意味と、俺が左手首に巻いている壊れた腕時計への皮肉が込められている。

 エレベーターホールに向かう途中、フロアの中央にあるエースの席が目に入った。


 一ノ瀬凛いちのせ・りん


 入社三年目にして大型案件を回す、企画一課の若きエースだ。

 今日も彼女は、鬼気迫る表情でキーボードを叩いていた。艶やかな黒髪を振り乱し、完璧な資料を作ることに取り憑かれた仕事の鬼。

 周囲の社員たちは、そんな彼女を遠巻きに眺めながら、自分の無能さを棚に上げて陰口を叩くのだ。「あんなにカリカリしてちゃ、男も寄り付かないよな」と。


(……阿呆らしい)


 俺は心の中で毒づき、左手首の時計に目を落とす。

 ひび割れた文字盤の針は、五年前から動いていない。十七時三十分。俺の人生が止まった時刻。

 あの日、仕事になんかかまけていなければ。定時で帰ってさえいれば……。

 

 エレベーターが到着する。

 俺は逃げるように、夜の街へと降りていった。



 ***



 日付が変わる頃、俺は再びオフィスビルの前に立っていた。

 IDカードをかざし、深夜通用口を抜ける。

 忘れ物をしたからだ。いや、正確には捨てられなかったものを回収しに来た。


 静まり返ったフロアは、サーバーの低い唸り声だけが響いている。


 俺は自分のデスクの、一番下の引き出しを開けた。奥に押し込んでいた小さな箱を取り出す。

 紺色の包装紙に、銀のリボン。

 五年前、妻が俺に渡すはずだったプレゼントだ。

 家に置いておくのが辛くて、会社のデスクという名の墓場に埋めていた。だが、今日はあいつの命日だ。もう供養してやるべきだろう。

 箱をスーツのポケットにねじ込み、帰ろうとした時だった。


「……う、ぅ……」


 呻き声が聞こえた。

 空耳かと思ったが、違う。フロアの奥、青白い光が漏れている区画がある。


 一ノ瀬のデスクだ。

 まだ残業していたのか。エースなんておだてられて、体よく仕事を押し付けられているだけだというのに。


 関わるな。お前は古時計だ。他人の事情に首を突っ込む資格はない。

 そう自分に言い聞かせて背を向けようとしたが、異様な気配に足が止まった。

 パソコンのモニターだけが光っている。椅子には誰も座っていない。

 声は、デスクの下から聞こえていた。

 俺は音を殺して近づき、パーティション越しに中を覗き込んだ。


「ひいっ……!」


 そこにいたのは、昼間の凛としたエースではなかった。

 デスクの下、埃っぽいカーペットの上で、一ノ瀬が小さくうずくまっていた。

 彼女は、自分の右手の親指を口に含み、ガチガチと小刻みに震えていた。


 幼児退行。あるいは、自傷行為。

 その目は焦点が合っておらず、涙でぐしゃぐしゃに濡れている。


「できない、ちがう、完璧じゃない……ごめんなさい、ごめんなさい……」


 うわごとのように繰り返しながら、彼女は親指を強く噛んだ。

 じゅる、といやな音がする。

 指の付け根はすでに赤く腫れ上がり、爪の隙間からは血が滲んでいた。それでも彼女は、痛みでストレスを麻痺させるように、自身を食むのをやめない。

 見ていられなかった。

 かつて仕事に押し潰され、何もかもを失った俺自身の姿が重なった。


「……おい」


 声をかけると、一ノ瀬がビクリと肩を跳ねさせた。

 絶望に染まった顔が、ゆっくりと持ち上がる。

 俺の顔を見ても、彼女は誰だか認識できていないようだった。ただ、目の前に「他人がいる」という事実に怯え、さらに強く指を噛もうとする。


「やめろ」


 俺は膝をつき、彼女の眼前にしゃがみ込んだ。

 自分の指を噛みちぎる勢いの一ノ瀬。このままでは指が使い物にならなくなる。

 止めなければ。だが、どうやって?

 言葉は届かない。力ずくで引き剥がせばパニックになる。

 俺は無意識のうちに、右手を差し出していた。

 長く、骨張った、男の人差し指。


「自分のを噛むな。痛いだろうが」


 自分でも驚くほど、低い声が出た。


「……俺のでいいなら、貸してやる」


 一ノ瀬の動きが止まる。

 彼女は呆然と俺の指を見つめ、それから縋るような目つきで俺を見た。

 論理も理性も崩壊した極限状態。彼女の本能が、目の前の救済を求めた。


 彼女の唇が開き、俺の指を迎え入れる。


 ちゅ、う。


 温かく湿った感触が、指先を包み込んだ。

 背筋が粟立つような感覚だった。


 一ノ瀬は俺の人差し指を、まるで赤子が乳房を求めるように必死に吸い上げた。


 舌が指の腹に絡みつき、硬い歯が関節に当たる。

 痛い。けれど、彼女が自分の指を壊す痛みに比べれば、これくらいは何でもない。


「ん、んん……ぅ……」


 静謐なオフィスに、水音が響く。

 唾液に濡れた指が、熱い口腔内で脈打つのを感じる。

 性的な行為ではない。これは治療だ。

 俺の体温が一ノ瀬に流れ込み、彼女の中の冷たい孤独を溶かしていく。そんな錯覚を覚えるほど、彼女の吸引は切実だった。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 一分か、あるいは十分か。

 一ノ瀬の呼吸が次第に整い、小刻みな震えが収まっていく。

 彼女の瞳に、理性の光が戻り始めた。

 自分の口の中に、上司の指がある。

 その事実に気づいた瞬間、彼女はパッと口を開き、俺から離れた。


「あ、ぁ……っ!?」


 真っ赤な顔で口元を押さえ、一ノ瀬が後ずさる。

 俺は唾液で濡れた人差し指を、スーツのズボンで無造作に拭った。


「落ち着いたか」

「み、三ツ矢、さん……? わたし、なにを……」

「何も見てない。何もされてない。俺は忘れ物を取りに来ただけだ」


 俺は立ち上がり、呆然とする彼女を見下ろした。

 これ以上ここにいれば、彼女は羞恥心で死んでしまうだろう。

 それに俺自身も、指先に残る熱の余韻に、妙な動揺を覚えていた。


「……次はもっとマシな場所で泣け。ここは埃っぽい」

俺は埃で汚れた膝を払いながら立ち上がった。


「非常階段。……俺は毎日、昼休みはそこにいる」

「え……?」

「どうしても耐えられなくなったら、そこに来い」


 それだけ言い捨てて、俺は歩き出す。

 背後で、一ノ瀬が立ち上がる気配がした。


「……三ツ矢さん」

 震える声が呼び止める。


「あの……その時計」

「あ?」

「止まってますよね。五年前から、ずっと」


 振り返ると、一ノ瀬はまだ赤い顔のまま、けれど鋭い瞳で俺の左手首を見ていた。


「ただの無能な人は、そんなに優しい手をしてません。……貴方は、本当は」

「買い替える金がないだけだ」


 彼女の言葉を遮り、俺は深夜の闇へと踏み出した。

 ポケットの中の箱を、ぎゅっと握りしめる。

 リボンはまだ、解けないままだ。

 けれど指先には、確かな熱が残っていた。

 それは、止まっていた俺の時間に、微かな一秒を刻むような熱さだった。

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