トランプのうらおもて

コリドラス@仁世亜

トランプのうらおもて

 フランスパンといえば、ほとんどのパン屋には置いてある、細くて長い形状の、あの“フランスパン”のことだと思っていた。

 違った。

「あれはバケットっていうのよ」

 言って、姉は紙袋からあれやこれやとパンを取り出し、食卓のテーブルに並べ始めた。

 久々の平日休み。

 かわいい姪っ子会いたさに姉に電話をすると、出先だから今から荷物持ちに来いときた。

「ちょうどよかった、帰りにむすめちゃんを拾っていくから」

 はいはい、と二つ返事で了承し、とっとと駅に向かう。

 いくつになっても姉には逆らえない。

 積極的で付き合い上手、若くきれいな新米ママさんは、娘を幼稚園に送り出した後の時間を利用してパン教室に通い始めた。


 はじめてにしては上出来だねえと、形のよいバケットとやらを手に取ると、

「それはお教室で買ってきたやつ」

 わたしが作ったのはこっち、と姉はもぞもぞ残りのパンを袋から取り出した。見るからに固そうで小さいやつ。

 思わず吹き出した。

「まさか、これも“バケット”じゃないよね?」

「違う違う、それはカンパーニュっていってね、そういう丸い形状のフランスパンなの」

 失敗したんじゃないのよ! 頬を赤らめてむくれる姉を見て、こういうところに義兄にいさんは惚れたんだろうなとつくづく思う。

「フランスパンにもいろんな種類があるのよ」

「さようですか」

「はじめてにしてはスジがいいって先生に褒められたのよ」

「まさかあ」

「ほんとだもの!」

 今度はぷうっと頬を膨らませる。これだもの。こちらもついついからかいたくなる。

「もしかして昼食は……」

「いやなら食べなくてもいいわよ」

「食べますわよ」

 とは言ったものの、案の定、昼食に出された歪なパンは見た目通りの味わい。目が詰まりすぎて固かった。スジがいいなんて怪しいもんだ。

「せっかくの休みなんだから友達と映画にでも行けばいいのに」

 噛み砕くのに悪戦苦闘していると、いつもの説教じみた会話が始まった。軽く無視する。

「ショッピングは?」

 無視。

「カフェに行っておしゃべりとかさ……」

 面倒くさくなって、

「平日はみんな仕事だよ」

 いても誘わないけどね、こちらも適当だ。

「付き合い悪いよなあ」

 不服そうに姉は言う。荷物持ちに呼び付けておいて何を言うか。

「デートする相手とかいないの?」

「いませんねえ」

 小言は続くよどこまでも。

「やっぱりお姉ちゃんが誰か紹介するわよ」

「遠慮するわよ」

「真面目に聞きなさいよ」

「いたって真面目ですよ」

 肩をすくめる妹に、なぜかあっちがため息をつく。やれやれ。

「あのねえ、お姉ちゃんはあんたがねえ……」

 姪っ子がその時イスから抜け出し、姉の注意がそれた。

「こら、ちゃんと食べなさい!?」

 上手いタイミングで恒例の母娘かけっこが始まった。

 救世主、現る!

 まあ……こういうのもいいなあと思う。思うがままならない。人には向き不向きがあるのだ。  

 姉は秀才わたしは凡人。見てくれも美人とそれなりに。

 躓くことなく青春を謳歌し、社会人一年目で見初められさっさと結婚した姉とは違い、一浪し就職難を乗り越えてようやく今の会社に入れたわたしは、その時すべての運を使い果たしたと思った。

 今は頑張り時。

 むろん結婚なんて夢のまた夢。

 駆け戻ってきた姪の手にはトランプカード。前に教えた神経衰弱を今日もやれとせがまれた。

「食べてるとこ悪いんだけど……」

 むしろ好都合だ。

「適当に褒めてやって」

 小声で妹に頼み込む姉の顔は、すっかり母親のそれだ。わたしは雑に相槌し、慣れない手付きでカードを切る姪の姿をしばし見守った。

 

 帰宅途中、いつもの赤提灯に足を向けた。

「あれ? 今日は早いねぇ」

 店に入るや、親父さんがヒョイと顔を上げた。休みです、と伝えてカウンターに腰を掛けると、休みならもっとオシャレな店に行けよ、とケラケラ笑われた。

「わたしにはじゅうぶんオシャレですよ」

「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇの」

 いつものね、と一升瓶を掲げられ、はいと返事をひとつ。客はわたしとなんとなく見知った顔の男性が一人。

 もっきりで出された日本酒にそろりと口を付け、不意にわたしは聞きたくなった。

「親父さん、バケットって知ってる?」

「なんだそりゃ?」

 瓶の蓋をグイグイしめながら、素っ頓狂な声を出す。バスケットボールの略語か何かか? などとつまらないジョークが飛び出して、苦笑しながら訂正する。

「違うよ、フランスパンの名前」

「はあ? フランスパン? フランスパンは、あれだ、フランスパンじゃねえか」

「なんですか、それ」

 どこかで聞いたようなセリフに思わず吹き出すと、オレはしがない飲み屋の親父だよ、と向こうもクツクツ笑う。

「だからさ、フランスパンでもいろいろ種類があるんだって」

「そのバケットってやつもか」

「種類の中のひとつらしいよ」

 へえ、と今度はいやに感慨深い声を出して、親父さんは作業する手を一瞬止めた。

「まあ考えりゃあ、おれ達だっていろんなのがいるんだからなあ」

 パンの世界だっていろんなのがあるわなあ、とやはりケラケラ笑い、わたしにお通しを差し出した。


 姉には一つ欠点があった。

 手先が不器用だったのだ。

 幼稚園に上がる娘のスモックがどうしても縫えず、泣きながらわたしのところへやって来たのはいつだったか。

 はじめての育児で疲れもあったのだろう。その姿がなんだか切なくて、だけど、はじめて姉を近くに感じたものだ。

 そういえば、トランプカードを切るのも下手くそだったな。やりたいと言う割にはいつもカードをバランバランにして、結局わたしにお鉢がまわってきた。

 子供の頃の話だけれど――

 升の酒をグラスに注ぐ。最後の一滴がフチにぴたりとおさまり、我ながら自分のさじ加減にほれぼれする。


 それがどうした。


「まあ、オレに言わせりゃパンはパンだし、人は人だ、もひとつ言わせりゃ、酒は酔えりゃあ、みんな酒よ」

 ガラリと戸が開いた。あれ、今日は早いねぇ、馴染みの顔に足を向ける親父さんの背をぼんやり眺め、ふと思い出す。姉の作った固いパン。それもアリだなと考える。

 ゆっくりグラスを持ち上げて、波立つ酒をぐびりと呑んだ。

 今日は早いねぇ。

 いろんな客相手でも、親父さんの態度は変わらず、なんだか可笑しかった。

 それがどうした。


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