08

 胃袋が次の栄養を待つように収縮する。

 その不快な運動に、コトは目を覚ました。

 そんな時に限って朝の空気は妙に澄んでいた。


 資材束は腕に食い込み、指先が痺れる。木材は湿って重い。鉄の補強材は冷たく、掌の皮膚から熱を奪っていく。


 居住区の奥から現場へ向かう途中、誰かが落とした工具が金属音を立てた。高く跳ねて、二度、三度と床を打つ。


 コトは反射で身体を低くした。周囲も同じだった。息が止まり、視線が崖側へ流れる。


 数秒後、誰かが短く言った。


「……違うぞ」


 竜ではない。分かっていてなお、身体だけが先に動く。染みついた警戒が、反射として現れる。この場所ではそれが正解だった。


 作業区画に入ると、ヒオの声が先に耳へ飛び込んできた。

 いつも強く、よく通っている。余裕があるというより、抑えが効いていない感じだった。


「そこ、もう一段詰めろ」


 ヒオは動きながら指示を出していた。腰が軽く、足取りに迷いがない。昨日まで、どこか擦り切れた顔をしていたのに今日は妙に生きている。


 昨日あった薬の話が頭を過ぎる。

 だが、考えても仕方のないことだと、コトは割り切った。


「楔、角度そのまま〜……よし、次」


 判断が早く的確なように見える。

 だが、確認が省かれ、呼吸を置かないまま次の指示が飛ぶ。


「ちょっとヒオ、そこ緩くない? 確認した?」


 ユーカが口を挟んだ。

 手際だけが洗練されているように感じたからだ。


「平気だって!……ほら、次行くよ」


 明るく、冗談めかした声だった。


 ――元気そう。


 その言葉が浮かび、コトはすぐ飲み込んだ。ここでの「元気」は信用できない。元気に見えるものほど、壊れやすい気がしていたからだ。


 ヒオの違和感に、ユーカも気付いている。

 だが、はっきりと口にはしない。

 自分の役目ではないと、そう思っている。


「楔を挟んでからにして」


 栗色の髪が肩に触れる。

 作業着の襟は擦り切れている。


「次は固定。合図は待って」


 声は柔らかい。でも、それで現場は回らない。ユーカの柔らかさは、必要な硬さを含んでいた。


 その隣に、ペルがいる。


 ペルは女の子と言っていい年齢だった。小柄で、袖の余った作業着を何度も折っている。髪をまとめる紐も擦れて細い。

 ユーカといる時以外は、口数が多くない印象だった、


 ペルは索の取り回しが上手い。手早く、丁寧で、無駄がない。危険な担当ほど、余計な癖を残さない。


 C区画寄りにはヤズもいた。相変わらず目つきが悪い。苛立ちが顔に張りついていて、眠れていない。


「昨日の補強、どこ行った。あれで足りると思ってんのか」


「足りねえから、使い回してんだろ」


 返したのは別の男だった。ヤズが舌打ちし、空気がざらつく。


 オルダは少し離れた場所で、工程を眺めていた。

 コトの視線の向こうで、腕を組んで立っているだけだ。眼帯がやけに目立つ

 オルダは決して動かないのに、ここにいるだけで妙な圧がある。コトにはまだ、あの圧の意味が分からない。


 ヒオが声を飛ばした。


「ペル、そこ角度そのまま。引きすぎるな。張りは俺が見る」


「うん」


 ヒオの方は見ないが、正確で素早い。

 ペルは作業に集中していた。


 ユーカが確認する。


「合図、待つよね」


 ヒオは頷いた。だが、その頷きが早い。

 視線が落ち着かず、焦点が合っているのに、合いすぎている。


 危うい。

 コトはそう感じた。


「待つ。……いや、今いけるか」


 遠くでペルが何かを言っているが、届いていない。


「待って……」


 ユーカの口がわずかに開く。止める言葉を探している。だが、現場はすでに動き出している。

 止めるには理由が必要だ。

 作業が遅れたら、その間に竜が来たら。

 その問いが、いつもユーカの喉を塞ぐ。


「行くよー」


 ヒオの言葉は軽い。


「ちょっ………」


 ヒオは合図を出した。


「引け!」


 瞬間、索が鳴った。


 金属が擦れ、張り切る音。

 ワイヤーが生き物みたいに震える。


 荷重が乗り、楔が耐えるはずだった。


 だが、乾いていた音を立てる。


 ぱん、と。


 切断音ではない。破裂でもない。何かが耐えきれず、役目を放棄した音だった。微細なズレが、致命に変わる。


 ペルの身体がふわりと浮いた。足場の縁へ引っ張られる。


 落ちる――と思った。


 索は、彼女を落とさなかった。

 落とさないまま、その小さな身体を縁に叩きつけた。


 骨ではなく、肉が打つ低い音。


 ペルの叫びが遅れて来た。


「――っ、ぁああ!」


 ユーカが飛び出す。


 ペルの元へ駆けつけ、その身体に一通り目を通す。


「ペル! 動かないで!」


 声が鋭い。

 穏やかな声音が消え、刃物みたいな声になる。

 コトは背筋が冷えた。ユーカの「もう一人」が、表に出ていた。


 周囲が動き出した。

 

「索を緩めろ!」

 

 固定を増やす。

 誰かが楔を叩く。


「担架持って来い! 急げ!」


 事故対応への切り替わりが恐ろしく早い。

 コトは唖然としたまま、一歩だが下がった。


 ペルは落ちていない。だが、左足が――足だけが、足場の縁に残されていた。


 最初、コトの目はそれを理解出来なかった。作業着の裾が裂けているだけのように見えた。

 血がすぐには見えない。見えないのが余計生々しく残酷だった。


 ユーカがペルの顔を覗き込む。


「息して! 聞こえる? 返事して?」


 ペルは涙も出ていない。目を開いたまま、喉がひくひく動いて、声にならない音を漏らす。痛みが痛みとして届く前の、身体の拒絶であった。


 誰かがペルの腰を支え、誰かが左足を見る。


「……切れてるぞ」


 小さな声だった。誰かがその声を否定しなかった時点で、全員が理解した。


 左足は飛んだ。


 正確には、足そのものが「どこかへ飛んでいった」わけではない。索と縁と荷重が、人体の柔らかい部分を裂いたのだ。そこに「飛んだ」という言葉しか当てはまらない。


 遅れて血が来た。

 暗い赤が作業着を濡らし、木の床へ落ちる。

 脆くなった木面が血を吸い、蓄積された灰と砂に溶けて黒みを帯びた。


 コトは吐き気が上がった。

 今自分が吐くのは違う。

 必死に手で口を押さえ、激しく息を確かめた。


「何してんだ」


 声の主はヨル。

 走って来たわけじゃない。

 慌てる様子もなく、視線で現場を一周させる。


 それだけで状況を掴む。

 目がペルの左足――残された部分へ行き、すぐに戻る。


「止めろ」


 短い声。だが現場が止まる。


「索を固定しろ。引き過ぎるなよ?

 ワイヤーで縛って止血しろ……ユーカ、そっに手離すな」


「分かってる!」


 ユーカの声が荒い。攻撃的な人格が前に出ている。近づく者を拒む声だ。ペルの周りに、見えない線が引かれる。


 ヨルの視線がヒオへ向いた。


「……え? いや、俺は……」


 ヒオの動揺は、遅れてやってきた。

 足元が揺れている。顔色が落ち、唇が白い。取り返しの付かないことをしたと、ヨルの声を聞いて初めて認識していた。

 さっきまでの軽さは消えている。手が震え、指先が空を掴むように動く。


 ヒオは何か言おうとした。だが、声が出ない。喉だけが動く。


 ヨルは言った。


「下がれ」


 責めない。慰めない。判断だけをそこに置いた。


 ヒオの目が開いた。瞳孔が大きく開き、焦点が合っているようで合っていない。泣きそうでもない。怒りそうでもない。壊れたものを見た顔だった。


「俺は……」


 ヒオの声が掠れた。


 ヨルは返さない。返さないことが答えになった。


 ヒオは唇を噛み、視線を落とした。


「……ご、ごめん」


 その一言で、終わった。


 誰もヒオを追わなかった。追う余裕がない。追ったところで、ペルの足は戻らない。戻らないことだけが、確かな現実だった。


 ペルは運ばれていった。担架の上で、身体が小さく震えている。痛みが遅れて来たのだろう。ユーカが横を歩き、何かを言い続けているが、言葉は聞こえない。その方が今は都合がいいと、コトは思った。


 現場が再開するまでの時間は短かい。


 短すぎた。


 血を拭き、裂けた木材を外し、索を張り直す。

 誰かが「竜来たら終わりだぞ」と吐き捨てる。

 正しいはずなのに、人間だけが置き去りになっていた。


 コトは資材束を抱え直し、震える指に力を入れた。


 ――これが、ここの日常。


 そう思った瞬間、途端に足場が不安になる。

 涙は滲むだけで、落ちない。


 夕方、見回り表が貼り替えられた。


 コトは通路を通りながら、それをちらりと見た。そこからヒオの名前が消えている。代わりの名前が書き足されている。

 紙は汚れ、端が破れている。

 その紙切れ一枚で、誰かの役割が消える。


 ペルの名前は、残っていた。


 残っていることが残酷だった。

 現場は名前を消さない。身体が消えた分だけ、名前が浮くのだ。


 その夜。


 灯りは少なかった。

 作業灯の光が揺れ、影が増える。それが心の余裕を蝕んでいく。コトは自分の呼吸音すらうるさく感じた。


 通路の角を曲がったとき、人影があった。


 ラニーダだった。


 壁にもたれ、暗がりに沈んでいる。

 黒い長髪が乱れ、頬はこけ、整っていない髭が口元を汚している。垂れ目気味の青い瞳は焦点が合わず、斜視じみて、こちらを見ているのか分からない。


「………」


 距離が近いだけで、身体が固くなる。


 ラニーダは笑わなかった。笑わないまま、口の端だけがわずかに上がる。笑みとも言えない形だ。


「……ひとり?」


 ぞわりと、背中に冷気が走った。

 声は低いが、硬くはない。けれどそこには、人らしい温もりが感じられず、会話の形だけをしていた。


 コトは首を横に振った。否定か肯定か、どちらにも見える動きになった。


「……ペル、どうなった」


 ラニーダが言った。興味があるようには見えない。


 コトは答えなかった。答えたら、何かを渡す気がした。


 ラニーダはそれ以上詰めなかった。

 ニタリ、と顔を歪めた。


 コトは一歩退き、通り過ぎた。背中に視線が刺さる。

 生きた心地がしなかった。

 単なる死とは違う、人としての何かが終わる感覚。

 竜が来てくれた方がマシだと、この時ばかりは思っていた。


 


 人が欠け、役割が欠ける。

 欠けた分だけ、別の誰かが詰め込まれる。


 部品と人、そこに違いはない。

 コトは改めてそれを痛感する。


 明日も同じように軋む。

 明日も同じように音に怯える。


 そして、次は誰の何が飛ぶのか。


 コトは寝所へ向かいながら、もう空を見上げなかった。


_______


ユーカ

https://kakuyomu.jp/users/adee

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竜刑は断崖にて @adee

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