07

 朝の作業灯が点く音を、コトは聞き分けられるようになっていた。


 金属が噛み合う乾いた音。

 少し遅れて、梁の奥で別の灯が点く気配。

 風に煽られて揺れる光と、揺れない光。


 最初の数日は、どれも同じだった。音も、光も、匂いも、怒鳴り声も、全部がひとつの塊で、コトの頭の中を鈍く殴ってきた。

 だが今は違う。違いが分かる。どの通路が軋みやすいか、どの梁が冷えやすいか、どの結び目が解けやすいか――体が覚えはじめている。


 便利だった。

 同時に、怖かった。


 作業区画には、最初から人が混ざっていた。全員が黙々と、ただそれぞれの工程を回している。


 ヒオは、欠けた滑車の下で索を撚り直していた。指の動きは速いのに、不器用に見えるのは、力任せだからだ。結び目が固くなりすぎて、次に解くときに時間を食う。分かっていても、今は固く締めたいのだろう。締めれば安心できる。安心は、ここでは貴重品だ。


「ヒオ、次あっち」


 ユーカだった。

 投げやりで語気もやや強い。優しく穏やかな表情が沈黙し、鋭い眼光が周囲を拾っていく。


「コト、こっち」


 この雰囲気のユーカは、コトには少し怖かった。目が合っているのに、こちらを見ていない。人を見ているというより、危険を見ている目だった。


「そこ、近づかないで」


 低く冷たい一言だが、合理的な形をしている。

 コトが一歩でも間違えた場所に足を置けば、声より先に手が伸びて引き戻される。短く、強く。叱るでもなく、慰めるでもなく、ただ修正する。


「ユーカ〜! 今日顔怖いよ〜!」


 そんなやり取りを見ていたのか、イシュリアが身を乗り出すようにして声を飛ばした。

 彼女はさらに奥の梁で、焼けた固定金具を交換していた。動きに無駄がない。口は軽いが、それが作業に異常をきたすことはない。


「コト! 今日もかわいいぞ〜」


 イシュリアのそんな明るさが、作業場の消耗を緩和しているようだった。

 軽口は、ここでは防具だ。防具を着ていないと、体の中身が外に出てしまう。


 コトは、まだ仕事は覚えきれていない。工具の名前も、装置の正式な呼び方も曖昧だ。


「これはどこ?」


「あっちの通路」


 分からなければ聞き、出来る範囲で手を動かす。

 余計なことはしない。足手まといにならないように、それだけを守る。


 しかし時々、反射的に体が止まる。


 梁の継ぎ目に黒い染みが見えたとき。

 鉄骨の隙間に、乾いた布の端が絡まっていたとき。

 匂いが、ふと変わったとき。


 それが昨夜の残りだと分かってしまう。

 分かった瞬間、喉の奥が冷えて胃が動く。吐くほどではないが、吐ける余裕がないことも分かっている。


 コトは手を動かすしかない。

 動かせば、色々と考えなくて済む。


「板、そこ、内側」


 ヒオが言った。声はいつもより柔らかかった。

 コトが板をずらすと、ヒオは頷いた。


「そう。……あぁ、ごめん。言い方雑だったね」


 謝る必要はない、とコトは思う。

 だが、ヒオはよく謝る。自分が間違っていなくても反射的に口にする癖があった。


 表面的には優しさに見える。

 だが同時に、怖さでもある。優しい人間は、ここで長く生きない。




 コトは、ヒオに聞きたいことがあった。

 昨夜のことではない。匂い槽のことでもない。もっと小さいこと――ヒオの手の震えだ。


 朝は震えていなかった。

 今は、ほんの少しだけ震えている。


 力を入れすぎたときの震えではない。寒さでも、恐怖の類にも見えない。もっと内側から来る揺れに感じた。


 コトは口を開きかけて、ゆっくり閉じる。

 聞けば、踏み込むことになる。踏み込めば、距離が変わる。距離が変わることは、この場所では時々、死より重い。


 ユーカが、無言でロープ束を差し出した。

 必要な長さだけ切り、端を焼くための火種を寄せる。


 コトはそれを受け取り、端を炙った。焦げ臭さが指に残る。

 ほんの少しだけ、気が楽になる気がした。


「コト! 早くなったね」


 イシュリアが、遠くから声を飛ばした。

 彼女はこうして、コトを気にかけていた。


「……」


 コトは無言で首を振った。

 イシュリアは掠れたように笑った。


「そうか? いいね……じゃあ、まだ大丈夫だな〜」


 まだ大丈夫。

 その言い方が、コトには引っかかった。大丈夫じゃなくなる前提が、最初からそこにあった。



 作業が少し落ち着いた頃、イシュリアが近づいてきた。

 汗の匂いに、油と錆が混じっている。ここでは誰も同じ匂いをしているはずなのに、イシュリアの匂いだけが少しだけ「人間」に近い気がする。体温が残っている匂いだ。


「ねぇコト」


「はい」


「ここで“良い人”を探すなよ? 良い人ほど、壊れるからな」


 イシュリアの声は小さかった。ただ、たしかに忠告の形をしていた。

 優しさではなく、経験の刃。


 コトは頷いた。頷くしかない。


「それと――」


 イシュリアが視線を一瞬だけ流した。

 コトも、つられて目を向ける。


 ラニーダがいた。


 作業着の袖が擦り切れている。体つきは悪くない。動きは無駄がなく手際もいい。役割としてはC担当の男だ。装置や索の扱いに慣れている。つまり、必要な人間でもある。


 なのに、周囲が微妙に距離を取っている。

 それは偶然ではなく、導線が自然に避けられている。


「ああ、ねえペル……今日は来るかな?


 そう問われたペルは、何も言わずに駆け足で去っていった。

 それに不満を漏らすわけでもなく、歪な笑みを浮かべる姿がただただ不気味だった。


 ラニーダは誰かの背後を通るとき、必要以上に近い。すれ違いざま、肩が触れそうな距離を選ぶ。悪意というより、距離感が壊れている感じたった。それはここでは、刃物より厄介なことがある。


「あいつには近づくなよ」


 イシュリアは、短く言った。


「仕事はできる。でも信用はするな。夜、一人で歩くな」


「……なにかされたの」


 コトが訊くと、イシュリアは首を振った。


「……いいや。まぁ一応な」


 イシュリアの目は攻撃的だった。

 コトは一瞬、ラニーダを見た。

 目が合った気がしたが、正確には分からない。分からないことが、気味が悪かった。


 ――異常だ。


 そう思った。

 危険だと分かっている人間が、ここでは「注意事項」で済まされる。排除も改善もされない。ただ、気をつけろと言われるだけ。


 コトは、それがとても嫌だった。

 嫌だと感じる自分が、まだ残っていることが少しだけ救いだった。


「コト」


 見上げると、そこにはヨルが立っていた。


「体調は平気か?」


 言葉は確かに、コトを気遣うものだった。

 だが、ただの確認のようにも聞こえてしまう。


「へいき」


 それだけ口にした。


「ああヨル。コトの服、少しだけあったかいの用意してやれよ」


 イシュリアがそう言った。

 二人の距離は近すぎず、だが他人過ぎない。

 長い付き合いなのだと、コトはなんとなく感じ取った。


「ああ? なんでだよ」


「コトは女の子なんだから……冷えるもんね〜」


 そんなことはない、と言いかけた。

 だが、徐にヨルの顔を覗くと、何故か目を見開いていた。


「女……?」


「は!?」


 イシュリアの顔が歪む。

 ほんの僅かな沈黙が落ちた。


「男、じゃないのか?……お前」


「うん」


 コトは小さく頷く。


「最低ね、あんた。

 女の子かどうか見間違うなんて」


「いやそれは……」


「目が悪いのか? 竜の目でも突っ込んでやろうか?」


「目はいい方だ」


 コトの目に映るヨルは、思ったていたより人間らしかった。イシュリアに詰められ、困ったような顔をするヨルの姿は、思っていたイメージよりも柔らかい。


「ヨル……かみ、きったほうがいい」


 ポンポンと、自分の頭に手を置くコト。


「ん?」


「みえないなら、きったほうがいい」


 少し遅れて、ヨルは目にかかった前髪をかきあげる。


「別に、髪で見えてなかったわけじゃねえよ」


 イシュリアが高らかに笑う。


「いいじゃん! コトが切ってあげなよ!」


「まかせて」


 クウォーターでは珍しく、軽さと緩さを含んだ会話だった。

 ぶつくさ文句を垂れながら踵を返すヨルも、別に悪い気がしたようにも見えない。細やかで、穏やかな、とても小さな時間だった。

 






 作業は続いている。

 ヒオの震えが少しずつ増えていく。


 指先が落ち着かない。言葉が短く、強い。

 目がやけに明るいようだった。


 コトが板を運び終えたとき、ヒオは息を吐きながら笑った。


「……今日は、やれる気がする」


 笑い方が、薄かった。

 自分に言い聞かせるような笑いだ。


「むりは――」


 コトが言いかけると、ヒオは遮った。


「無理じゃない。取り戻さないと」


 取り戻すとは、何を。

 昨夜の遅れか、恐怖で止まった手か。それとも死んだ誰かの時間なのか。コトには分からない。


 ヒオは焦っていた。

 焦りはここでは火に近い。燃え広がるのが異常に早いのだ。


「あ、そこ、まだ――」


 コトが言った。


 足場の板を渡す。

 梁と梁を繋ぐ仮設の通路。手順では、二箇所を留めてから渡る。留めれば安全になる。留める時間が、命になる。


「時間がない、平気だ」


 ヒオは言い切った。


 コトは反射的に手を伸ばした。

 止めたい。止めるべきだ。

 だが、止める言葉が見つからない。どれを選んでも、ヒオの顔が変わってしまうと分かっていたからだ。それは怒りではなく、壊れてしまいそうな顔。


 ヒオは足を乗せた。


 板が、ずれた。


 ほんの数センチ。

 それだけで世界は傾く。


 コトの体が浮いた。

 恐怖が胸に来るより先に、頭が動いた。


 ロープ。

 掴める梁。

 声。


「……っ!」


 ヒオが手を伸ばしてきた。助けようとしたのだろう。

 だが、その手は正しい角度ではない。掴めば、二人とも引きずられる。


 コトは手首を捻って、掴まれないように避けた。

 避けたことに、自分でも驚いた。


 ――躊躇しない。


 昨夜までの自分なら手を伸ばしていた。

 そしておそらく、一緒に落ちていた。


 コトの足が滑り、膝が板にぶつかった。痛みが走る。痛みのせいで現実に引き戻される。


(おちる……っ)


 落ちるのは、ここでは終わりだった。


 次の瞬間、横から力が入った。

 イシュリアが、コトの背中を押し戻す。腕が伸び、ロープが張られる。


 ユーカが無言で索を投げた。

 手が正確だった。誰よりも早く、誰よりも無駄がない。


 ヒオの足元が戻り、板がようやく留められた。


 その間、作業場の空気は止まらない。止まらないまま、必要なところだけが動く。まるで事故が、工程の一部であるかのように。


 そこに、ヨルがいた。


 いつから見ていたのか分からない。

 気配が薄いというより、最初から「居る」人間だ。気づいたときにはいつも居る。


 ヨルはヒオを見た。

 責めも、慰めも、怒鳴りもしない。

 ただ、事実だけを置く。


「次は死ぬぞ」


 それだけ。


 ヒオの顔が歪む。

 怒りでも反発でもない。恐怖と悔しさと、自己嫌悪が混ざった顔だ。目の奥が揺れている。ヒオの身体のことは、コトには分からない。ただ、ヒオが今、壊れそうだということだけが分かる。


「……ごめん」


 ヒオは言った。

 声は震えていない。震えているのは、背中だった。


 誰も「大丈夫」と言わない。

 誰も「よかった」とも言わない。

 ここでは、生き延びたことは祝福ではなく、次の工程へ移る条件だ。


 作業が再開される。

 板は正しく固定され、二人は別の場所へ回される。事故は“処理”され、残りは日常の中に埋められていく。


 コトは手を動かしながら、心臓の音を聞いていた。

 まだ速い、まだ強い。生きている証拠だった。


 だが、その音の下に別の音がある。

 自分の中で、何かが削れていく音。


 ヒオは優しいし、面倒見もいい。

 不器用で、指示が雑で、それでも最後までコトを見捨てない。


 そんなヒオが、たったひとつのミスで二人を殺しかけた。悪意でも慢心でもなく、ただの焦りによるものだった。


 視線の端、一人の大きな男が横切った。

 ラニーダだ。何もしていないのに、誰もが距離を取っていた。危険は行動ではなく存在に滲むことがある。


 コトは、ふと考える。


 ユーカは救った。

 無言で。正確に。

 救ったあとも、何も言わない。


 イシュリアは押し戻してくれた。

 軽口の裏で、刃のように状況を読んでいた。


 ヨルは、言葉を一つだけ落とした。

 それ以上は何もしない。

 何もしないまま、全員を生かす。


 ――やっぱり、おかしい。


 コトはそう思った。


 人が死にかけて仕事が続く。

 優しい人ほど危険になる。

 危険な人が、そこにいる。

 それを誰も問題にしない。


 まだ幼いコトは、それをはっきり認識しているわけではない。

 だが、それらが違和感として積み上がっているのは確かだった。



 作業灯が揺れる。

 風が鳴る。

 鉄骨が鳴る。


 コトは自分の膝の痛みを確かめた。擦り傷程度で、血は出ていない。出ていたとしても拭けば済む話である。

 滑るなら拭く。滑らないなら放っておく。そういう判断が、もう当たり前になりかけている。


 ここは異常だと、そう思えなくなる日が来るのだろう。その時、ここでの生存が少しだけ楽になるのかもしれない。

 良いか悪いかは、別の話だ。


 コトはまだ、それを知らない。

 そしてここは、それを知った者たちで溢れている。

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