寂しがりな冷笑屋よ

脳幹 まこと

同工異曲の舞台の上で


 昔の本を読んでいる。

 浅田 彰あさだ あきら「構造と力」、三浦 雅士みうら まさし「幻のもうひとり」、上田 紀行うえだ のりゆき「生きる意味」……まあ様々だ。

 数十年ほど前の本なのに、書かれている内容は現代とそう変わらない。

 まあ、それらより遥か前の徒然草つれづれぐさですら「キラキラネームないわー(意訳)」と載ってるんだから、やはり歴史は繰り返されるものなのだと感じずにはいられない。



呪術廻戦じゅじゅつかいせん」と「チェンソーマン」という人気漫画がある。どちらも映画化されて大ヒットした。前者は完結して続編が出ていて、後者は第二部をやっている。


 私はかじった程度にしか両作を確認していないが、それでも人気になった理由が「なんとなくわかる」のだ。批評家じゃないけども、現代の一般人目線でなんとなく。


 絵がすごいとか、設定が斬新とか、キャラが魅力だとか、そういうのも勿論あるんだけれども、それにも増して、どことなく冷笑的で、ドライな現代の感性に合ってる気がしたのだ。


 この流れは上二作に限った話じゃない。テレビに流れるドラマも、ネットに転がるコンテンツも、そういう枠が出てきた。

 一世代前……テレビがまだ力を持っていた頃は、こういう斜めな観点は、パロディとか茶化す形で用いられてきた。大半はまっすぐな作品がまっすぐ受け入れられていたはずだ。

 今では、バカ真面目に斜め目線の作品が沢山お届けされる。要するに「こんなのに真面目になっちゃってて草」と真顔で発するような雰囲気のものが出てきたということだ。


 人はそれをドライとも冷笑的とも無情ともいう。


 そんな話が「人間の本質を描いている」として好まれるのは、Web画面を通じて従来と比べて格段に速く知った気になれるようになったからだと思っている。最近ではAIのおかげでその勢いに拍車がかかった。つまり、過去最高に知ったかぶりが出来るようになった。

 問題はその知ったかぶりの精度が「ほとんど正解」と呼べるほど高まっていることにあるんだろう。

 また、知ったかぶりと表現しているが、特定の誰かや世代を悪く言うつもりはまったくない。

 だって、そうだろう。「知っていること」と「知ったかぶること」、その差は今やどこにある? 経験の差か? 「学習したんだ」という自信、あるいは苦痛の差か? 

 現代人はそれらをわざわざ図書館に通わずとも目に出来る。というより、それらが目に飛び込んでくる。そういう情報の羅列が。玉石混交の電子データは印刷にも増してノーコスト、ノーウェイト、ノーリミットで複製され、大衆に届けられる。


 量を求めれば溺れるしかなく、質を求めれば狂うしかない。

 だから我々はドライにならざるを得なかった。もう誰も心から笑えない。笑うポーズはできるけど。


 ちなみにこういった話も、名著のなかで何度となく繰り返され、そんな名著たちもまた、引用という形で過去の名著と文通している関係だ。


 そんな数多の情報の中で、やはり呪術廻戦とチェンソーマンが心を震わせるのは、いわば無情の中の情、ドライの中のウェットを描くのが上手だったからなのではないかと思った。

 両作ともに容赦のない展開が登場するのだが、その中で登場人物がふと・・零す内心、その温かさというか。硬い殻に入った亀裂から、どろりと流れ出る黄身の部分というか。


 英雄の代わりに業ばかりが登場する話は、過去にもあった。環境問題、人口増加が一時期問題になって、人は醜いものなんて作品が、そんなものは芥川龍之介の「羅生門」を読めば分かるだろうに、たくさん出た。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というスローガンも同時期に出た。

 その延長で世界を壊して君と二人で、みたいな作品も出てきた。箱庭を作るために世界を敵にするためだけに人々は一層醜く描かれた。


 でも結局、世界はそんな醜くもないし、そもそもみんな自分に興味関心がない、誰かに意識を傾ける余裕もないことが分かった。世界は白くも黒くもなく、ただ透明な世界の中で、一人一人が極彩色のカプセルに入っているだけだったのだ。

 とんだぬか喜び、ぬか怒り、ぬか哀しみ、ぬか楽しみだ。

 

 そうなって、現代社会は結局、

「ほどほどに知っているし、知ろうと思えば更に知ることも出来るが、実際、少しでも自分に意識を向けると、それがどうだっていうんだ、何もかも薄っぺらじゃないかという虚脱に襲われる」

 という構図が、上から下まで延々と脈々と続いてきたのだ。


 そんな中で、皮肉とか生憎とかに散々揉まれた結果、冷めた卵に亀裂が入り、その隙間から生温い黄身がどろりと零れるような構図が、どうにも新鮮に映ったように思うのだ。

 間違ってもウェットではないが、完全なドライにも徹しきれない、そんな感じ。


 これらだってまた、過去の何かから導かれ、未来の何かに影響を与えるのだろう。他の作品のオマージュを一切使わないものは、もはや不可能に近い。引用の、受け売りのない小説は、もはや文法のない小説とイコールなくらいだ。

 全編引用とも呼んでいいAI作品の氾濫が、その結実ということになるだろうか。



 際限なく繰り返される中で、あらゆる組み合わせを総当たりブルートフォースすることを、誰も止めはしない。あらゆるニッチを埋め、天文学的な在庫の山を築こうとも、それは誰の気も止めはしない。

 すべては同工異曲だ。違う曲のように感じても、元をたどれば同じこと。それに気付いてしまって、人の心は冷めたのだ。

 そうじゃないか。私はそうだった。


 AIが一般の目に触れたばかりの時は、珍作ばかり作っていた。


「オメーってやつは本当にダメだな〜。まあ、見どころの一つくらいはあるから可愛がってやるよ」


 呆れつつ満更でもない感じだったのが、いざ品質が一人前にまで成長した時、私はこう思った。 


「あー、オリジナルってのも所詮はパターンの繰り返しなんだな」


 世界全土をグーグル・アースで見て、未開の土地なるものが存在しないことを知った時の、あるいは何らかのコンテンツをコンプリートした時の、次のなさ・・・・に心が冷えた。


 とはいえ、そんなのがいわゆる「知ったかぶり」だってことも、知っていた。井の中の蛙が、地球儀で大海を知った気になってるだけだ。


 そういうわけにはいかなかった。


 なんでかは分からない。何となく面白くないのかもしれない。

 だから、最近は節操もなく色々なところに突撃しては、自分の身体をガンガン打ちつけて、経験を片っ端から取り込んでいる。

 そうやっているうちに、亀裂から自分の新しい側面が出てくることを期待している。


 それもまた冷笑的な、虚無的な本性から、要するに「結局」という、不毛なそもそも論から目を背けたいだけなのかもしれないけれども、今のところは面白いから良しとする。


 私は私の意志で同工異曲の舞台の上を踊るのだ。


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