第6話 答えのない共同体

3週間ぶりに、あの通りを歩いた。


別に、行くつもりはなかった。ただ、帰り道が——あの店の前を通るだけだった。


暖簾が、出ていた。「ゆうなぎ」。あの、読みにくい字。


足が、止まった。なんで止まったのか、自分でも分からなかった。


窓から、中が見えた。カウンター席に、誰かが座っていた。紺色のパーカー。若い女。


あの人が、カウンターの向こうにいた。何か話している。


女が——笑った。小さく、ほんの一瞬。あの人も——笑っていた。


---


私は——何を感じたんだろう。


「やっぱり」と思った。あの人は、また誰かを——


でも。違う感情も、あった。


あの女の子は——私とは、違う。私は泣いた。溢れ出した。3年分の言葉が、全部出た。


でも、あの子は——笑ってる。静かに、穏やかに——笑ってる。


---


私は、窓から目を逸らした。歩き出した。妙に足が、重かった。


私は、何を期待していたんだろう。あの店が、閉まっていることを? あの人が、1人でいることを?


分からない。分からないまま、私は——振り返った。


店の明かりが、見えた。暖簾が、風に揺れていた。中で——あの人と、あの女の子が、何か話していた。


私が——いた場所に。


---


私は——また、歩き出した。今度は、振り返らなかった。


---


あの店の前を、また通りかかった。3回目だった。


1回目は、素通りした。2回目は、窓から覗いた。3回目の今日は——足が、止まった。


---


暖簾が揺れていた。中から、声が聞こえた。低い声。あの人の声。それと——もう1つ。若い女の声。


---


私は、何をしてるんだろう。もう関係ない。私は「もう来ない。さようなら」とも言った。あの人は——私を拒絶した。私は——あの人を責めた。それで、終わりのはずだった。


---


でも。終わってなかった。


---


毎日、考えていた。あの味噌汁のこと。あの夜、溢れ出した言葉のこと。3年分の——重さのこと。


---


私は、救われたのか? それとも——壊されたのか?


---


分からなかった。分からないまま、1ヶ月が過ぎた。


---


母の介護は、続いている。でも——少しだけ、楽になった。あの夜、泣いてから。誰にも言えなかった言葉を、吐き出してから。


---


それは——あの人のおかげなのか? それとも——私が、自分で楽になったのか?


---


分からない。分からないから——また、ここに来てしまった。


---


暖簾の向こうに、人影が見えた。カウンターに座っている、またあの若い女。紺色のパーカー。髪は——前より、まとまっている気がした。


---


あの子は、笑っていない。でも——泣いてもいない。ただ、じっと——あの人を見ていた。


---


あの人は——料理を作っていた。何か、焼いている。卵の匂いがする。


---


私は——暖簾を、くぐった。


---


店の中は、あの夜と同じ匂いがした。出汁の匂い。醤油の匂い。懐かしい——という言葉が、浮かんだ。


---


「——いらっしゃいませ」


あの人が、顔を上げた。目が——少し、見開かれた。


---


「——サナエさん」


私の名前を、呼んだ。覚えていた。当たり前か。あれだけのことがあったんだから。


---


「——こんばんは」


私は、言った。声が、少し震えていた。


---


カウンターには、あの子が座っていた。私を見ている。不安そうな目。警戒しているような目。でも——敵意は、なかった。


---


私は——あの子の隣に、座った。1席、空けて。


---


「——何に、しますか」


あの人が、聞いた。いつも通りの声。いつも通りの言葉。でも——どこか、緊張していた。


---


「——お茶、だけ」


私は、言った。


「今日は——食べに来たんじゃないです」


---


あの人の手が、止まった。


---


「——じゃあ、何で」


聞いてきた。私は——少し、考えた。


---


「——分かんないです」


正直に、言った。


「ただ——また、来てしまいました」


---


沈黙が、流れた。あの子が——私を見ていた。じっと。探るように。


---


「——あの」


あの子が、口を開いた。


「あなたは——」


---


私は、あの子を見た。若い。20代前半くらい。目は——疲れている。でも、死んでない。前に窓から見た時より——生きている目だった。


---


「——前に、ここに来てた人ですか」


あの子が、聞いた。


---


私は——驚いた。


「——なんで、分かるんですか」


「——宮野さんが」


あの子は、あの人を見た。


「——時々、『サナエさん』って、呟いてたから」


---


私は——あの人を見た。あの人は——目を逸らした。


---


「——そう」


私は、言った。


「前に——来てました」


「そして——もう来ないって、言いました」


---


あの子は——黙って、頷いた。


---


「——でも、来ちゃいました」


私は、続けた。


「自分でも——なんでか、分かんないです」


---


あの人が、お茶を出してくれた。湯気が、立ち上っている。私は、両手で包んだ。温かかった。


---


「——あなた」


私は、あの子に聞いた。


「——毎日、来てるんですか」


---


あの子は——少し、身体を強張らせた。


「——はい」


小さな声で、答えた。


---


「——なんで?」


聞いてしまった。聞くつもりは、なかったのに。


---


あの子は——答えなかった。ただ、カウンターを見つめていた。


---


「——分かんないです」


やっと、声が出た。


「ただ——ここに来ると」


「——」


「——温かいから」


---


私は——その言葉を、聞いた。そして——分かってしまった。


---


この子も——私と、同じだ。


---


「——私も」


気づいたら、言っていた。


「前は——そうでした」


「ここに来ると、温かかった」


「あの人の料理を食べると——何か、溶けていくような気がした」


---


あの子が——私を見た。目が、少し、潤んでいた。


---


「——でも」


私は、続けた。


「それが——怖くなったんです」


---


「——怖い?」


あの子が、聞いた。


---


「——依存してる、って」


私は、言った。


「思ったから」


「このままじゃ——この人の料理がないと、生きていけなくなるって」


「そう思って——怖くなって」


「だから——もう来ないって、言いました」


---


あの子は——黙っていた。長い沈黙があった。


---


「——私も」


あの子が、呟いた。


「——怖いです」


「依存してるって——分かってます」


「でも——」


---


言葉が、途切れた。


---


「——でも?」


私は、聞いた。


---


あの子は——あの人を見た。あの人も——あの子を見ていた。


---


「——宮野さんも」


あの子が、言った。


「——依存してるって、言ってました」


「私に」


---


私は——息を呑んだ。


---


あの人を、見た。あの人は——何も言わなかった。ただ、立っていた。カウンターの向こうで。


---


「——本当ですか」


私は、聞いた。


---


あの人は——長い間、黙っていた。そして——


---


「——本当です」


言った。


---


「——俺も、この子が来るのを、待ってました」


「この子が来ない日は——何も手につかなかった」


「俺も——依存してるんだと思います」


---


私は——信じられなかった。あの人が——そんなことを言うなんて。あの人は——いつも、向こう側にいた。救う側。与える側。私たちとは——違う側に。


---


でも——違った。あの人も——同じだった。


---


「——じゃあ」


私は、言った。声が、震えていた。


「——私たち、3人とも」


「——同じ、ってことですか」


---


あの人は——答えなかった。あの子も——答えなかった。


---


3人とも——黙っていた。


---


お茶が、冷めていった。店の中に、出汁の匂いが漂っていた。誰も、何も言わなかった。


---


でも——不思議と、居心地は悪くなかった。


---


「——答え」


私は、呟いた。


「——出ないですね」


---


あの人が——小さく、笑った。笑った——というか、口の端が、少しだけ上がった。


---


「——出ないです」


あの人が、言った。


「——ずっと、出ないです」


私は——なぜか、少しだけ——楽になった。


---


来た日から——2週間が経った。


アオイは、毎日来た。俺も、毎日待った。


もう、「また来ていいですか」とは聞かなくなった。来る。それだけだ。俺も、「いつでも」とは言わなくなった。待ってる。それだけだ。


---


「今日は——」


アオイが、メニューを見た。うちにメニューはない。壁に貼った食材だけだ。でも、アオイは毎日それを見る。


「——お任せで」


結局、いつもそう言う。


---


俺は、「見えた」ものを作った。今日は——肉じゃがだった。


---


暖簾が、また揺れた。


「——こんばんは」


---


サナエさんだった。


---


週に1度か2度。サナエさんは、来るようになった。


「いつでも来てください」とは言ってない。でも——来る。俺も——待ってる。


---


「——隣、いいですか」


サナエさんが、彼女に聞いた。


「——どうぞ」


彼女が、少しだけ笑った。


---


2人は、最初はぎこちなかった。でも、2週間経って——少しだけ、慣れた。


「友達」じゃない。「仲間」でもない。ただ——同じ場所にいる人。それだけの関係。


---


「——サナエさんは、何にします?」


俺は聞いた。


「——お茶だけ」


いつもの答えだった。


---


サナエさんは、俺の料理を食べない。1度も、食べてない。


「——まだ、怖いんです」


前に、そう言っていた。


「また——溢れ出したら、って思うと」


---


俺は、何も言わなかった。それでいい、と思った。食べなくても、ここにいていい。それだけで——いい。


---


「——今日、母が」


サナエさんが、呟いた。


「——私の名前、呼んだんです」


「——」


「久しぶりに」


---


アオイが、サナエさんを見た。


「——良かった、ですね」


小さな声で、言った。


---


サナエさんは——少しだけ、笑った。


「——うん」


「——良かった」


---


俺は、肉じゃがを盛り付けながら——聞いていた。2人の会話を。静かな会話を。


---


「——どうぞ」


アオイの前に、皿を置いた。


「——いただきます」


アオイが、箸を取った。


---


サナエさんは、お茶を飲みながら——それを見ていた。俺は、カウンターの向こうで——立っていた。


---


3人。答えは出てない。依存してるのか、してないのか。救われてるのか、救われてないのか。分からないまま——ここにいる。


でも——悪くなかった。この時間は、悪くなかった。


---


暖簾が揺れた。3人目だ、と思った。でも——違った。


---


中年の男性だった。スーツ姿。ネクタイは緩めてある。目の下に、隈があった。


---


「——いらっしゃいませ」


俺は、声をかけた。


---


男性は、店の中を見回した。カウンターに、2人の女性が座っている。少し——躊躇した。でも、入ってきた。


---


「——1人です」


「——どうぞ」


俺は、アオイとサナエさんから少し離れた席を示した。男性は、そこに座った。


---


「——何にしますか」


俺は聞いた。


---


男性は——メニューを探した。ないことに気づいて、壁を見た。


「——なんでもいいです」


投げやりな声だった。


---


俺は——「見えた」。この人が、本当に必要としているもの。


……重かった。今まで「見えた」ものの中で、1番重かった。


---


手が、動き始めた。止められなかった。出汁を取る。卵を溶く。


だし巻き卵——じゃない。違う。もっと——


---


茶碗蒸しだった。具は少なめ。出汁を効かせた、シンプルなやつ。


「——どうぞ」


俺は、男性の前に置いた。


---


男性は、スプーンを取った。1口、食べた。


---


止まった。


---


「——」


男性の顔が、強張った。スプーンを置いた。


---


「——これ」


低い声だった。


「——何を入れたんだ?」


---


俺は——答えに詰まった。


「——卵と、出汁と——」


「——そうじゃない」


---


男性が、俺を見た。目が——怒っていた。でも、それだけじゃなかった。怯えていた。


---


「——お前、俺に何をした」


---


アオイが、身を硬くした。サナエさんが、茶碗を置いた。


---


「——何も」


俺は、言った。


「——料理を、作っただけです」


---


「——嘘だ」


男性が、立ち上がった。


「——嘘だ。お前——」


---


男性の手が、震えていた。


「——なんで」


声が、裏返った。


「——なんで、分かるんだ」


---


俺は——何も言えなかった。


---


「——俺は、何も言ってない」


男性が、続けた。


「——何も、言ってないのに」


「——なんで、お前に——」


---


男性の目から、涙がこぼれた。本人も気づいてないようだった。


---


「——やめろ」


男性が、後ずさった。


「——やめてくれ」


「——俺の中に、入ってくるな」


---


俺は——立ち尽くしていた。


---


「——すみません」


声が出た。


「——すみません、俺は——」


---


「——謝るな!」


男性が、叫んだ。


「——謝るな、お前——」


---


男性は、財布から金を出した。カウンターに叩きつけた。そして——店を出ていった。


---


暖簾が、大きく揺れた。


---


3人は唖然としていた。


---


誰も、何も言わなかった。


---


茶碗蒸しが、カウンターに残っていた。1口だけ、食べられた茶碗蒸し。


---


「——」


俺は、それを見ていた。


---


サナエさんが——口を開いた。


「——あの人」


「——」


「——何が、見えたんですか」


---


俺は——答えられなかった。


---


「——分かんないです」


やっと、声が出た。


「——重かった、としか」


「——分かんないです」


---


アオイが、箸を置いた。肉じゃがは、半分残っていた。


---


「——宮野さん」


彼女が、俺を見た。


「——大丈夫、ですか」


---


俺は——大丈夫じゃなかった。


---


「——俺の料理は」


声が、震えていた。


「——全員に、効くわけじゃない」


「——分かってたはずなのに」


---


サナエさんが、俺を見ていた。彼女が、俺を見ていた。


---


「——効いても」


俺は、続けた。


「——望まない人もいる」


「——触れられたくない場所を、触ってしまう」


「——俺は——」


---


言葉が、詰まった。


---


「——俺は、何をしてるんですか」


---


誰も、答えなかった。答えられなかった。


---


茶碗蒸しが、冷めていった。店の中に、出汁の匂いだけが残っていた。


---


静寂が、店を満たしている。


男性が出て行った扉は、もう閉まっている。でも——その向こうに、まだ何かが残っている気がした。


---


俺は、カウンターの向こうに立ったまま、動けなかった。手が、震えている。さっきまで茶碗蒸しを作っていた手が。


---


「——」


サナエさんが、何か言おうとした。でも、言葉にならなかった。口を開いて、閉じて——また、開いて。


---


「——」


アオイも、何か言おうとした。でも、同じだった。言葉が、見つからない。


---


3人とも、黙っている。時計の音だけが、聞こえる。カチ、カチ、カチ。


---


俺は——何を待っているんだろう。誰かに、「大丈夫ですよ」と言ってほしいのか。誰かに、「あなたは間違ってない」と言ってほしいのか。


---


でも——そんな言葉は、来ない。来るはずがない。


だって——俺が間違ってないかどうか、誰にも分からないから。


---


「——」


サナエさんが、息を吐いた。長い、長い息だった。


---


「——私も」


サナエさんが、言った。


「——最初、怖かった」


---


俺は、顔を上げた。サナエさんは、湯呑を両手で包んでいる。お茶は、もう冷めているはずだ。


---


「——あの味噌汁を食べた時」


サナエさんは、湯呑を見つめている。


「——心が、開いてしまった」


「——3年分の——全部が、溢れ出した」


---


「——」


俺は、何も言えない。


---


「——怖かった」


サナエさんが、繰り返した。


「——自分の中に、何かが入ってきた気がした」


「——勝手に、扉を開けられた気がした」


---


「——」


俺の手が、また震えた。


---


「——あの男の人と、同じだったんだと思います」


サナエさんが、言った。


「——私も、あの時——拒絶したかった」


「——でも、できなかった」


「——体が、動かなかった」


---


「——」


俺は、息を呑んだ。サナエさんは——あの時——逃げたかったのに、逃げられなかった。そして、心を開かされた。


---


「——」


アオイが、小さく声を出した。何か言おうとしているけど、言葉にならない。


---


「——私、は」


アオイが、ゆっくり言った。


「——怖く、なかった」


---


サナエさんが、アオイを見た。俺も、アオイを見た。


---


「——怖くなかった、んです」


アオイが、自分の言葉を確かめるように、繰り返した。


「——だし巻き卵を、食べた時」


「——温かい、って思った」


「——それだけ、だった」


---


「——」


サナエさんは、黙っている。


---


「——でも」


アオイが、言った。


「——それが、良かったのか」


「——分かりません」


---


アオイは、自分の手を見ている。細い指。少し、爪が伸びている。


---


「——私、空っぽだったから」


アオイが、言った。


「——入ってこられても、何も——なかった」


「——だから、怖くなかったのかも」


---


「——」


俺は、息を吐いた。


---


「——でも」


アオイが、俺を見た。まっすぐに。


---


「——今は、ここにいます」


アオイが、言った。


「——それだけ、です」


---


「——」


俺は、アオイを見ている。紺色のパーカー。前より、少し——生きている目。


---


「——俺は」


俺は、言った。声が、掠れている。


---


「——あの人を、傷つけた」


「——助けたかったのに」


「——傷つけた」


---


「——」


サナエさんが、俺を見た。


---


「——でも」


サナエさんが、言った。


「——私は、ここにいます」


---


「——」


俺は、サナエさんを見た。


---


「——3年間、1人で——泣けなかった」


サナエさんが、言った。


「——あの夜、泣けた」


「——それが良かったのか、分かりません」


「——でも——」


---


サナエさんは、言葉を探している。


---


「——今、ここにいます」


サナエさんが、言った。


「——それだけ、です」


---


「——」


俺は、2人を見た。サナエさんと、アオイを。


---


答えは、出ない。俺が正しいのか、間違っているのか——分からない。あの男性を傷つけたのか、救えなかったのか——分からない。


でも——2人は、ここにいる。


---


「——俺は」


俺は、言った。


「——分からないです」


「——自分が、何をしてるのか」


「——これからも、分からないと思います」


---


「——」


2人は、黙っている。


---


「——でも」


俺は、言った。


「——明日も、店を開けます」


---


言ってから——自分でも、驚いた。それが、答えなのか——分からない。でも——それしか、できない。


---


「——」


アオイが、小さく頷いた。


---


「——私も、来ます」


アオイが、言った。


---


「——」


サナエさんが、湯呑を置いた。


---


「——私も」


サナエさんが、言った。


「——多分、来ます」


---


「——」


俺は、2人を見た。


---


答えは、出ない。誰も、正解を持っていない。


---


でも——3人は、ここにいる。明日も、多分——ここにいる。


---


それが、答えなのかもしれない。答えじゃないのかもしれない。


---


分からない。分からないまま——俺は、湯呑を下げた。


---


「——お茶、淹れ直しますか」


俺は、言った。


---


サナエさんが、少しだけ——笑った。笑ったように、見えた。


---


「——お願いします」


---


俺は、薬缶に手を伸ばした。手は——まだ、少し震えている。でも、お湯は沸かせる。お茶は、淹れられる。


---


それだけだ。今は、それだけでいい。




3ヶ月後


---


冬が来た。店の窓に、結露がつくようになった。


---


アオイは、今日も来ている。紺色のパーカーの上に、ベージュのコートを羽織っている。自分で買った、と言っていた。


---


「——今日は、シチューがあります」


俺が言うと、アオイは小さく頷いた。


「——それで」


---


サナエさんは、今週は来ていない。先週、母親の施設を探し始めた、と言っていた。


「——罪悪感は、消えないです」


そう言っていた。


「——でも、このままじゃ、私が先に倒れるから」


---


俺は、何も言えなかった。ただ、お茶を出した。


サナエさんは——その日、初めて、俺の料理を食べた。肉じゃがを、1口だけ。


---


「——美味しい」


そう言って——少しだけ、泣いた。


---


俺は、何をしたのか——分からなかった。何かが変わったのか、変わってないのか——分からなかった。


でも、サナエさんは——翌週から、時々食べるようになった。


---


あの男性は、来ない。あれから1度も、来ていない。


---


俺は、時々——あの夜のことを思い出す。「俺の中に、入ってくるな」。あの声を。あの、頬を伝っていた涙を。


---


彼は、今——どうしているのだろう。俺には、分からない。知る方法も、ない。


---


でも——俺は、店を開けている。


また来てくれるだろうか。


---


今日も、誰かが来るかもしれない。俺の料理を食べて——心を開いてしまうかもしれない。


それを「救い」と感じる人もいるだろう。「暴力」と感じる人も、いるだろう。


---


俺には——選べない。相手に合わせて、力を止めることも——できない。


---


でも——俺は、料理を作る。それしか、できないから。


---


「——宮野さん」


アオイが、言った。


---


「——今日、雪が降るらしいですよ」


---


俺は、窓の外を見た。曇り空。まだ、降ってはいない。


---


「——そうですか」


俺は、言った。


「——なら、今日は温かいもの、作りますね」


---


アオイが、頷いた。小さく。でも——確かに。


---


俺は、鍋に火をつけた。シチューが、ゆっくり温まっていく。湯気が、立ち上る。


---


答えは、まだ出ない。多分——ずっと、出ない。


---


でも——鍋は温まる。料理は、作れる。誰かが、食べてくれる。


---


それだけでいいのか——分からない。それでいいのか——分からない。


---


でも——今日も、俺はここにいる。明日も——多分、ここにいる。


---


窓の外で、白いものが——ちらつき始めた。


---


「——降ってきましたね」


アオイが、言った。


---


俺は、シチューをかき混ぜた。


---


「——そうですね」


---


それだけだった。それだけで——良かった。


---


(『ゆうなぎ —— 答えのない食堂』 完)

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【ヒューマンドラマ】ゆうなぎーー答えのない食堂 マスターボヌール @bonuruoboro

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