金魚姫の戀患い
宵宮祀花
夜を泳ぐ錦蘭子
――――あたし、初めて恋をした。
水槽の外はいつだって同じ景色。
泳ぐ様を見に来る人たちは、飽いたらついと行ってしまう。
綺麗だって褒めてくれても、同じ口で別の金魚を褒めるのよ。どうせあたしたちの区別なんてつきやしないんだから、すまして泳いでいるだけで良かったの。
それなのに、あたし、一目見ただけであのひとに囚われてしまったの。
何度目かの縁日で、あたしたちが泳ぐ水槽を見下ろしたひと。涼しげな目をした、綺麗な方。気を引きたくて、あのひとの前で泳いで見せたけれど、あのひとは行ってしまった。何故か苦しそうな目であたしを見つめて、行ってしまったの。
きっとあのひとも、あたしを他の金魚たちと区別出来やしないんだって、わかっているわ。それでも焦がれてしまうから、恋煩いなんていうのよね。
他の人間なんかに捕まりたくなくて、泳ぎすぎたせいかしら。縁日が終わる頃にはとても苦しくて。嗚呼、きっといままでの娘たちと同じように捨てられるんだわっておもったの。最後に一目でもいいから会いたかったけれど、生まれ変わったら人間になれるんじゃないかしらって、そうおもえば怖くはなかったわ。
そんなことを夢想していたせいかしら。
気付いたらあたし、縁日の真ん中に立っていたの。
とうとう死んでしまって、水槽から投げ捨てられたのかとおもったけれど、見たら二本の脚が揃っていたわ。赤い着物に、ひらりと揺れる綺麗な振り袖。何度も眺めてきた人間のどの娘たちより綺麗な着物を着ていたの。黒い下駄に赤い鼻緒もとっても素敵。もうすぐ死んでしまうのがもったいないけれど、夢も見られず死ぬよりずっとしあわせだわ。
そう。これはきっと夢に違いないわ。金魚が人間になるなんて。
死に際の夢ってこんなにも色鮮やかで、苦しかったことも忘れるくらいに体も心も軽いのね。それとも人間って、みんなこんなものなのかしら。
金魚だった頃のあたしの尾びれみたいに綺麗な赤い着物を翻して、あたしは夕陽がすっかり沈んだ終わりかけの縁日を歩いて回ったわ。
もう人間たちはほとんど帰ってしまって、賑やかな通りを歩くことは出来なかったけれど。それでもあたしは、初めて自分の脚で歩くことが楽しかったの。
人間ってとても大きい生き物だとおもっていたけれど、あたしの体はそうでもないみたい。大きな人間に手を引かれて歩いている、小さな人間と変わらないのね。
あたし、そんなに幼かったかしら。それとも人間と金魚って、そういうところから違うのかしら。わからないことはたくさんあるけれど、これは最期に見る夢だもの。きっと道理もなにもないんだわ。
あのひとがいないかしらって探して、探して、探し回って。縁日の最果て、石段を登った先にあるお社にお参りもして、たくさん歩いて回ったの。
水槽から見上げた空はとても狭かったのに、外ってこんなにも広かったのね。
それでね、初めて歩いたものだから、あたし、加減を知らなくて。気が付いたら、鼻緒を噛んでいる足の指を痛めてしまっていたの。赤い鼻緒がもっと赤く染まって、擦り剥けたところからひりひりと焼けるような痛みが滲んできたわ。
可笑しなものね。脚があっても、歩くことが出来ないなんて。
あたし哀しくって、大きな木の根元に座り込んだの。誰もいない神社の端っこで、せっかく人間になれる夢を見ても会いたいひとには会えないままで、呆気なくここでお終いなのかしらって。そうおもったらとても哀しかったわ。
人の声がとても遠くて、代わりに夜がとても近くにあるのを感じるわ。水槽にいた頃は風の音や人間の生活音が、こんなに良く聞こえたことってなかったもの。
夢の終わりって、案外呆気ないものなのね。
そっと下駄を脱いで赤く傷ついた足を眺めていたら、目の前に誰かが立った気配がしたの。夜色の着物の裾が見えて、あたしと違って逞しい足元が見えたから、それがすぐに殿方だとわかって慌てて裾を直しながら見上げたの。
そうしたら――――
「大丈夫ですか」
あのひとが、あたしがもう一目だけでも会いたいと願ったあのひとが居たわ。
涼しげな目に、さらりとした黒髪。初めて聞く声は暑気をさらう夜風のよう。白い肌が夜の闇と黒い着物によく映えて、差し伸べられた手は繊細で綺麗なのに、殿方のものだってわかる骨張った作りをしているの。人間って、こんなにもひとつひとつ、顔かたちから指の先まで違うものなのね。
模様や形が少しずつ違うだけの金魚を、簡単に見分けられないわけだわ。
「足が、痛むのですか」
はしたないところを見られて、あたし、勝手に顔が熱くなるのを隠せなかったわ。金魚の姿より、もしかしたら赤く染まっていたんじゃないかしら。
頷くあたしを見て、あのひとはあたしの前にしゃがんだの。
高いところにあった顔が、すぐ目の前にあるわ。眉を寄せて、まるで自分が怪我をしたみたいに痛そうな顔をして。
「これは、素足に履くものではありませんよ。傷になっているではありませんか」
あのひとの手にあたしの傷ついた足が乗せられて、間近で見つめられて、もうこれ以上なにが起きたって恥ずかしいことなんてないっておもったのに。
ねえ、どうして。
「少し、染みますよ」
あのひとの舌が、あたしの足を
「やはり、痛みますか」
あたしの足が勝手にちいさく跳ねたものだから、あのひとが足の甲を宥めるように撫でながら、優しく訊ねてくれたわ。
あたしは、幼子みたいに首を振ることしか出来なかった。
夢の中って案外おもうように動けないものなのね。声のひとつも出せないなんて。それともあたしが金魚だから、元々声なんて出せないのかしら。それならそのほうが都合がいいわ。だってもし声が出せてしまったら、あたしきっと、とてもはしたない声をあげてしまった気がするもの。
あのひとの熱い舌が、あたしの痛む足を慰めていく。あたしはずっと売り物の金魚だったから、怪我をしたら治療なんてされずに捨てられるものだったけれど。
綺麗な顔が、あたしの足のすぐ傍にある。唇が触れている。あのひとの舌が、足の指を押しのけて、丁寧に這い回る。怪我なんてしていないところまで、全てをすくい取るように。
「送りましょう。帰ったら、しっかり手当をしてください」
両の足を綺麗にしたら、あのひとはあたしの下駄を片手に提げて、あたしを軽々と抱え上げたわ。いままでで一番あのひとの顔が近くて、心臓がとても煩くなった。
「家はどちらですか」
あのひとの問いに、あたしは答えられなかった。
声が出ないだけじゃないわ。あたしは帰る場所がないの。だって人間の姿で水槽に戻ることは出来ないし、なによりもう縁日は終わってしまったから、自分がどこから来たのかなんてわからないんだもの。
あたしは黙って首を振った。そうするしかなかったの。
きっとあたしは、ここに置き去られることになるでしょうけれど、どうすることも出来ないもの。
そうおもっていたのに、あのひとはあたしを抱えたまま歩き出したわ。
「では、私の家に。……宜しいですね」
どんな意味を含ませて言ったのか、あたしにはわからなかったけれど。どうせすぐ終わる夢。あたしは頷いて、あのひとの胸にすり寄った。そうしたらあたしを抱いているあのひとの腕の力が、少しだけ強くなったの。
あたし何だかそれがうれしくて、胸の奥に火が灯るような心地がしたわ。
「着きました」
暫く歩いて着いた場所は、街外れのお屋敷だったわ。とても大きくて、たくさんの人間が住んでいても可笑しくないくらいにお部屋もたくさんあるように見えたのに、中に入って階段を上って、一番奥にあるお部屋に入るまで、誰にも会わなかったの。それどころか、誰かいるような気配もなかったわ。
「逃げ出さないんですね」
あたしをベッドに下ろしながら、あのひとは唐突にそんなことを言った。どうして逃げ出すことがあるのかあたしにはわからなくて、でもあたしには人間みたいに声がないからただじっと見つめるしか出来なくて。そうしていたら、あのひとはあたしの前に膝をついた。
とても背の高いひとなのに、こうしていると、あたしのほうがあのひとを見下ろすことになるのね。
「突然見知らぬ男に触れられたんですよ、貴女は」
次にそう言われて、あたしのはしたない様を責めているのかと思ったけれど、違うみたい。言うことのわりに、口調がとても弱々しいんだもの。
「確かに、私は応急手当のつもりでした……ですが、こんなふうにされたら、女性は嫌がるものなんです。そのはずなんです」
大きな手が、あたしのちいさな足を包んだ。苦しそうな顔で、あたしの爪先に唇を触れさせて。
「嫌がって、穢らわしいと叫んで、逃げ出すものなんです」
嗚呼、やっとわかったわ。あのひとは過去に、逃げられたことがあるのね。それも道でただ行き会っただけの、あたしみたいな他人じゃなくて。もっと身近な誰かに。お屋敷に誰も人間がいないことと、関係があるのかしら。
「なぜ貴女は、私から逃げないんですか」
縋るように、祈るように、あたしの足先を涙のような舌が這う。
今度は手当だなんて、つまらない建前を脱ぎ捨てて。
床に置かれたあたしの下駄は綺麗に揃っている。
あたしが履きやすいように、こちらに踵を向けて、ほんの少し足を伸ばせばすぐに届くところにあるわ。
きっとあたしが逃げ出したって、追いかけたりはしないんでしょう。過去に拒絶を残してあのひとを置いて行った、見知らぬ誰かにも、そうしなかったように。
「嫌なら、私を突き飛ばして逃げてください。……お願いです」
あたしは逃げたりはしなかった。あのひとの舌が足首に触れて、着物の裾をたくし上げて這い上がってくる。大きな手のひらが足を包んで、あたしを捕まえる。
すっかりはだけた着物をそのままに、あたしはただ、あのひとを見つめていたわ。苦しい舌があたしの太腿に至っても、あたしは逃げなかった。逃げられなかったの。
「逃げないのなら……もう、逃がしてあげられません。すみません」
知らないのかしら。
人間にすくわれた金魚は、そのひとのものになるのよ。
あたしは許しを請うような眼差しで見上げてそう言ったあのひとに、なにも言わず頷いた。白い内腿にいくつも赤い花が咲いたのが見える。
あのひとが散らした、息継ぎの痕だわ。
ずっと、苦しかったのね。人間なのに陸で上手に息が出来ずに、いままでどうにか人間のふりをして生きて来たのね。
綺麗なのに、不器用なひと。人間のふりが下手なひと。あたしを見下ろしたときの顔も、とても苦しそうだったわ。
まるで、いっそ水の中に落ちてしまいたいとおもっていそうな顔をしていたわ。
あのひとが水に落ちてくる代わりに、あたしが陸に上がってしまっているけれど。きっと何れにしても、あのひとはあたしを捕まえて、あたしはあのひとに囚われた。
あのひとの繊細な指が器用に帯をほどいて、あたしは綺麗な金魚から、ただの人になる。水槽から見上げていたときは細くて綺麗なひとだとおもっていたけれど、あのひとの体と比べたら、あたしはなんて小さいのかしら。
優しくベッドに寝かされて、あのひとがあたしの上に覆い被さってくる。見下ろす顔はあのときに見た、とても苦しそうな顔。
ここにはもう、あたししかいない。
涼しげな目元が、あたしだけを真っ直ぐ見つめている事実に、目眩がしそうだわ。
「貴女の全てを、私に下さい」
あたしの頬に大きな手を添えて懇願するあのひとに、あたしは頷いてすり寄った。
しなやかな指先が、あたしの肌を擽る。輪郭を確かめるように、喉から肩、そして胸へと滑っていく。やわらかな肌に、指先が優しく沈むのを感じた。ちょっとくらい乱暴にしたところで壊れたりしないのに。なのにあのひとの指は、慎重過ぎるくらい慎重にあたしの体に触れる。
「もしも痛かったら、私を殴ってでも止めてください。……私は、貴女を傷つけたいわけではないのです」
どうしてそんなことを言うのかしらって不思議におもったけれど、もしかしたら、あたしが喋らないのではなくて、声が出せないってわかってくれているのかしら。
試すつもりで、声を出そうと唇を開いて見たけれど、喉から漏れるのは掠れた細い吐息だけだったわ。
「嗚呼、どうか、無茶をしないでください。喉を痛めているのか、それともなにか、ほかに理由があるのかはわかりませんが。声が出なくとも貴女はとても表情豊かで、綺麗なひとです。私は貴女の、その綺麗な顔が熱に浮かされる様が見たいのです」
そんなことを熱っぽい声で言われたら、拒むことなんて出来ないわ。
元からあのひとのすることを、何一つ拒むつもりなんてなかったけれど。
あたしの体が全部、あのひとの前に晒されている。大して膨らみなんてない胸元に吐息が触れたかとおもったら、唇があたしの胸を含んで舌先が触れた。
たったそれだけなのに、あたしの体は水底から陸に放り出されたみたいに跳ねて、爪先が白妙の海を泳いだ。
ぬるりと蠢く舌にばかり気を取られていたせいで、あのひとの指先が脚のあいだに触れていたことに気付かなかった。繊細な指があたしの小さな芽を摘むように触れたとき、あたしは体が勝手に跳ねて震えるのを止めることが出来なかったの。息が荒く乱れて、目眩がして、まるで陸にいながら金魚に戻ってしまったみたいだったわ。
「嗚呼、私はその表情が見たかったのです。美しい貴女の、淫靡に蕩ける顔が……」
あたし、どうしてしまったのかしら。水中になんていないのに、あのひとの綺麗な顔が滲んで見えているの。ちゃんと人間の体になれているはずなのに、それなのに、さっきから体が跳ねて止まらないの。
「もっと、貴女の綺麗な姿を見せてください」
あのひとの長く繊細な指が、容赦なくあたしの中を責め立てる。ここには水なんてないはずなのに、ひどく濡れた音が聞こえるわ。あたしが身を捩る度に、あのひとの唇が優しく体を啄んで宥めようとする。
それすらあたしの体を蕩けさせていくことに、あのひとは気付いているのかしら。
「すみません。貴女を見ていたら、私も貴女を感じたくなってしまいました」
あのひとは帯の下をはだけて脚を露わにすると、窮屈そうな下履きも全て解いて、あたしに熱い欲の証を見せつけた。硬く大きく熱を帯びたそれがあたしを暴くのかとおもっただけで、体の奥が甘く疼くのを感じた。あたしはあのひとを見上げたまま、真っ直ぐ腕を伸ばして微笑んで見せた。
「どうして……嗚呼、私はもっと、優しく貴女を抱きたかったのに……」
苦しそうに熱っぽい顔でそう零すと、あのひとはあたしの体をキツく抱きしめた。
硬い慾熱の塊があたしの体に触れているのがわかって、あたしはすぐにでもそれがほしかった。でもあたしは、あのひとがしたいことを受け入れたい。
だからあたしは、あのひとの背にそっと手を回して、優しく撫でてあげたの。
可笑しな話だわ。子供にするような仕草でも、あのひとの熱はあたしの奥を望んで獰猛に脈打つばかり。あのひとも、それを感じたのかしら。とうとうあたしの震える脚のあいだに体を割り込ませて、腰を押し進めてきたわ。
「っ……ふ、……苦しくは、ありませんか」
誰よりも苦しそうな表情をして、柳眉を寄せて、あのひとがあたしを気遣う。体が真ん中から裂かれるような感覚が全身を突き抜けていくのに、あたしはその痛みすら愛おしかった。
あたしが首を振るのを見て、あのひとの右手があたしの頬を包んだ。親指が優しく目の端を拭うのを感じて、そのとき初めて涙を流していることに気付いたの。
蕩けるような口づけを合図に、あのひとの体がゆるりと動いた。熱を帯びた痛みが緩やかに快楽へと変わって、あたしの体はあのひとの腕の中でとかされたわ。
「……一目、見たときから、貴女がほしくて堪らなかった。他のなによりも綺麗で、魅力的な貴女を、私だけのものにしたかった。……一度は諦めたけれど、どうしても忘れられなくて……私は……っ」
太い楔があたしの体を穿ち、貫く。何度も、何度も。
水の中で暴れているような甘く濡れた音が、あのひとの言葉に余計熱をもたらしているようで、あのひとはあたしの体を何度も強く貫きながら、譫言のようにどれほどあたしがほしくて堪らなかったかと訴え続けた。
「あの場所で、貴女を見つけたとき、夢かと思いました。縁日も終わってしまって、もう二度と会えないと思っていたのに……貴女は、私の前に現れた。私が見た美しいあのままの姿で、私の前に、こうしていてくれている……」
熱っぽい言葉を注がれる度に、あたしの体の奥が切なく痛むの。だって、まるで、金魚のあたしをほしがっていたみたいなんだもの。そしてあたしが、その金魚だってわかっているみたいなんだもの。いくら最期の夢だからって、そんなあたしにばかり都合良くしあわせなことってあるかしら。
「嗚呼、私の美しい人……どうか、どうかこのまま、私の無様な熱を、哀れな欲を、受け止めてください……」
懇願する言葉と共に、あのひとの想いの証が、あたしの奥へと注がれた。
あたしも一緒に果ててしまって、あのひとを奥深くで捕まえたままの体が、歓喜に跳ねて止まらない。
深いところで繋がりあったまま、固く抱き合ったまま、あたしたちは、初めて陸に上がった金魚みたいに、下手な呼吸をしていた。
どれくらいそうしていたかしら。
あたしの中からあのひとの熱の塊が抜けていくのを感じて、あたしは少し、寂しい気持ちになったわ。まるで、体の大事なところが欠けてしまったみたいな感覚。
あのひとはあたしの着物の前をそっと合わせると、優しく唇を啄んだ。
「……順番が違ってしまいましたが、貴女のお名前を窺っても宜しいですか」
恥ずかしそうに言うあのひとに、あたしはどう答えれば良いのか迷ってしまった。首を振れば否定になってしまうけれど、頷いたところであたしには人間のような名前なんてないんだもの。
「もしかして、名前が、ないのですか」
あたしが困っていることに気付いたあのひとが、質問を変えて訊ねてくれた。
今度は迷わず頷いて、あのひとの厚い胸に頬を寄せた。まだ少し速い心臓の音が、あたしの耳を優しく擽る。子供みたいに甘えているあたしの頭を、大きな手がそっと撫でた。
髪を梳く指も、吐息混じりの声も、広い胸も。あのひとの全てが、あたしを捕えて放さない。
「それでは、私が名付けても良いでしょうか」
あたしはあのひとを見上げて、ひとつ頷いた。きっといまのあたし、蕩けるような顔をしていたんじゃないかしら。だって、こんなにうれしいことってないもの。
「それでは、そうですね……安直ではありますが、蘭子さんでどうでしょう」
綺麗な響きで、うれしくて、あたしは頷いた。言葉の意味まではわからなくても、あたしにとってあのひとが与えてくれたってことが全てなの。
「名乗るのが遅くなりました。私は、錦時雨といいます」
時雨さん。綺麗なひとは名前も綺麗なのね。なんて、盲目過ぎるかしら。だって、もし違う名前だったとしても、あたしは素敵な名前だっておもったわ。
「貴女は今日から錦蘭子さんです。……私の腕の中からいなくならない限り、貴女の全ては私のものです。そして、私の全ても貴女のものです」
涼しげな目が、夜風のような声が、あたしを捕える。
真綿の檻に閉じ込めて、あたしを体ごととかしていく。
名前をくれただけじゃなくって、あのひとと同じ姓までくれるだなんて。ほんとにいま、ちゃんと生きているのかしら。
ずっと、死の間際に見る夢だと疑ってきたけれど、いまほど信じられない瞬間ってないわ。
嗚呼、でもお願い。
もしも夢なら、このまま覚めないで。あたし自分でおもっていたよりずっと欲張りだったみたいなの。
愛しいひとの熱を知ってしまったら、もうどこにも行くことなんて出来ないわ。
たとえ、極楽にだって。
「美しいひと……私の、私だけの、狂おしく愛しいひと……一目見たあのときから、私は貴女に囚われていた……」
あのひとの、時雨さんの唇があたしの唇を塞いだ。
息の仕方を思い出すように、何度も、何度もあたしを飲み込んでいく。
――――時雨さん。
あたしの、初めてのひと。
なによりも綺麗で、愛おしいひと。
あたしは声のない声で、濡れた唇で、宝物を胸にしまうように名前を紡いだ。
金魚姫の戀患い 宵宮祀花 @ambrosiaxxx
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