Ⅲ 私を泣かせてください





 ――あなたは、私の太陽だった。

 ――あなたを失うなら、私はもう、誰のことも踏みにじりたくない。


 頭の下に腕が差し込まれる。

 宙に浮いたのを感じ、エジュは目に力を込めて開いた。

 視覚とともに聴覚も回復すると、シャーリが何か言っているのがわかった。

 彼は手袋を外した素手で、エジュの口元の血を拭いながら、呪文のように同じ単語を繰り返していた。

「馬鹿、馬鹿……馬鹿者! この大馬鹿者めが!」

 エジュは、何が起きているのかわからなかった。

 困惑しながら、シャーリを見上げた。


 ポツリ、と雨が降ってきた。

 それは随分としょっぱい雨だった。

 シャーリは怒りで肩を震わせながら、いっそ殴り出しかねない勢いでエジュを罵倒していた。

 責めあぐねて、言葉を詰まらせては、瞳から大粒の涙をこぼしていた。

「君は馬鹿だ、なんたる愚か者だ!」

 エジュは驚いた。この人がこれほどまでに狼狽し、怯えているのは初めて見た。

 思わず右手を持ち上げた。ハンカチ替わりにもならないけど、その手で彼の涙をぬぐおうとした。

 右手は最初の銃弾で、指が三本弾け飛んでしまった。

 欠けた部分の感覚はあるのに、手としては使い物にならなかった。

 シャーリは、少しでも血を止めようと、エジュの手首をきつく握った。助からないことを知りつつ、そうせずにはいられなかった。

「なぜ、盾になった。あんなことをしなくても、私は倒されなかった。なぜだ、答えろ!」

 エジュは、悲しげに睫毛をしばたかせた。

 どうして彼がそんなひどいことを言うのか、全く理解できなかった。

「なぜ黙っている。なぜ答えない。命令が聞けないのかエジュ!」


 エジュは一度だけ、首を横に振った。

 釣られるように、目から熱いものがあふれ出した。

 初めて、シャーリの前で泣いた。

 この生涯で初めて、彼の腕のなかで泣くことを赦された。

 涙はシャーリのそれと溶け合い、雪の白と混ざり合って大地を薄紅色に染め上げる。

 じわじわと四方に広がってゆく死の花びら。

 エジュは今更ながらに知った。

 赤という色は、白にこそ一番映えることを。

 冬の最後のあがき。

 雪が溶ければ、待っていたかのように大地は幾万もの青い生命の息吹を吐き出す。

 控える春の、豊潤な芽吹き。

 パラディアの最も美しい季節は、もうそこまで来ている。


 エジュは笑った。泣きながら笑った。

 奇跡的に声になった。

「きれ……い、ですね」

「何がだ、エジュ!」

「わた……し……ゆきが、せかいが、こんなに……きれいだ……ったなんて、しり……ません……でした……よ」


 またゴボリ、という音がした。

 大量の血が体中の孔からあふれ、二人をしとどに濡らしてゆく。

「あ、ああ……。エジュ、どこへ行く? どこへ行くんだ? なあ?」

 半狂乱のシャーリの声が、段々と遠くなってゆく。


 安寧の闇に溶けいる瞬間、パチパチ……という音が聞こえてきた。

 ああ、拍手の音だとエジュは思った。

 シャーリはもう泣いていなかった。怒ってもいなかった。

 ただ、出会った時のように優しく微笑んでいた。

「よくやったエジュ。よくぞ私を守った」

 エジュは、歓喜の嵐に包まれた。

 やっと自分の献身を認めてもらえた。

 彼の怒りは解けた。自分の旅立ちを許してもらえた。


 ――あなたの喝采、一番欲しかったものが、今ここに。

 ――あなたの愛しい笑顔、あなたの愛しい声、あなたの万雷の拍手が……すぐそこに。


 エジュが、シャーリの悲痛な叫びを聞くことはなかった。

「エジュ、答えろ。見ろ。こんなにも無様に泣きわめく私を見ろ。きみの主人であり、きみを誰よりも愛していたシャーリだ。きみを愛しながら抱きしめることもできなかった、世界一臆病で哀れな男だ」

 シャーリは意識を失い、呼吸の回数も落ち、冷たくなってゆくエジュに頬ずりし、もう何も見たくないとばかりにきつく目を閉じた。


 しばらくして――

 一度だけ、乾いた音がした。

 たちのぼる硝煙と残響は、パラディアの北にそびえる山々の向こうへゆるやかに消えていった。


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喝采 八島清聡 @y_kiyoaki

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