scene 1-02
カチッ。
小さく乾いた音が、風の音に混ざって響いた。
次の瞬間、鼻の奥に刺激のある匂いが流れ込んでくる。
煙草の匂い。
この屋上には、ひとつだけ灰皿がある。柵の端。そこから、白い煙がふわりと流れてきた。
(……誰か、いる)
涙でぼやけた目をこすりながら顔を上げると、柵のそばに人影が見えた。
スーツ姿の女性。
黒のタイトスカートにヒール。冬の風の中でも上着をはおらず、白いシャツの胸元を少しだけ開けている。
片手に煙草。もう片手でスマホを見て、無表情のまま画面をスクロールしていた。
(……きれい)
それが最初の感想だった。
美人、というより“強い人”という印象。
長い睫毛の影が、頬に落ちている。
煙草の火がゆらいで、赤く灯って、そしてまた消える。
けれど、すぐに現実に引き戻された。
自分はいま泣いている。顔はぐしゃぐしゃだ。
制服の袖で涙を拭っても、目の周りは熱いし、鼻も真っ赤だろう。
そんな顔を他人に見られるなんて、最悪だ。
(やだ……見ないで)
視線を下げて、マフラーをぐっと引き上げる。
息がこもって苦しい。けど、そうでもしないと泣いてるのがバレる。
風が強くなり、煙が流れてくる。
その匂いに混ざって、革靴の音がコツ、コツと近づいてきた。
――ヒールの音。
そのたびに心臓が鳴る。
(こっち来ないで)
(お願い、気づかないで)
でも、風の向きが悪かった。
きっと、自分のすすり泣きの音が聞こえたのだろう。
足音が止まって、沈黙。
次に響いたのは、掠れた声だった。
「……いつまで泣いてんだ、そこのガキ」
びくっ。
全身が跳ねた。
いま確実に“ガキ”って言った。
怖い声。低い。大人の女の声。
振り向くこともできず、マフラーの中で震える。
「陰気が感染るわ」
その一言で、心がきゅっと縮む。
冷たい。
でも、怒ってるというより、なんだか苛立っている感じ。
「……ひゃいっ」
思わず変な声が出た。
自分でも何を言ったのかわからない。
ただ、声を出した瞬間に涙がまた溢れてきて、慌てて手の甲で拭う。
拭いても拭いても、止まらない。
「……うっせぇな」
短く呟いて、ヒールの音がもう一歩近づく。
「おい、泣くのやめろ。余計悲しくなるぞ」
(そんなの、やめられるなら苦労しません……)
心の中で反論しても、声には出せない。
冷たそうな声なのに、不思議と怒鳴るでもなく、落ち着いている。
それがまた怖くて、胸が詰まる。
女は小さく舌打ちした。
煙草を口から外して、携帯灰皿に灰を落とす。
その仕草が妙にきれいで、また見てしまう。
「……悪かったな。こんな言い方しかできねぇんだ」
唐突に声のトーンが落ちた。
奏衣は驚いて顔を上げる。
女は眉を寄せながら、目線を少し逸らしていた。
「怖かったか?」
少しの沈黙。
頷くのも恥ずかしい。だから小さく首を横に振る。
「……いえ」
でも、声は震えていた。
「……何かあったのか」
問いかける声は、さっきより柔らかかった。
その一言で、胸の奥の蓋が外れる。
何かあったのか。
その言葉を誰かにかけてもらうことが、こんなに苦しいなんて思わなかった。
息を吸って、ゆっくり吐く。
でも、口を開いたらまた涙が出そうで、うまく言葉にならない。
目の前の女は、急かさずにただ待っていた。
煙草の火が、夜風にかすかに揺れる。
「……好きな人に」
声がかすれた。
言葉を区切って、何とか続ける。
「好きな子ができて」
女のまつげが、微かに動いた。
そして、ほんの少しだけ、眉が下がる。
「……はぁ? 失恋かよ」
呆れたような、でもどこか優しい響き。
奏衣の胸がまた熱くなった。
(失恋……そう、なんだ。これ、失恋なんだ)
その言葉でようやく、感情に名前がついた気がした。
そして、堰を切ったように涙が溢れる。
「っ……うう……」
「おい、マジかよ……」
女の声に焦りが混ざる。
でも奏衣はもう止められない。
両手で顔を覆って、肩を震わせる。
静かな屋上に、しゃくりあげる声が響く。
「……しかたねーな」
小さくため息。
次の瞬間、肩に柔らかい感触が落ちた。
黒いスーツの腕が、奏衣の体をそっと引き寄せる。
――抱きしめられた。
驚くほど自然に、その腕は強くも優しくもない、ただそこにある温度で包んでいた。
櫻子のスーツから、煙草と柔軟剤の匂いが混ざった空気がふわっと漂う。
泣きながら、奏衣の鼻の奥にその匂いがしみついた。
冷たい夜風の中で、それだけがやけにあたたかかった。
「泣け。泣き止むまで泣け」
頭の上から低い声。
「泣ききれば、ちょっとだけマシになる」
その声に、泣き方を教わるような気がした。
奏衣は何も言わず、ただその胸の中で声を出して泣いた。
喉が痛くなるほど泣いて、それでも止まらない。
誰かに抱かれて泣くなんて、きっと初めてだった。
女性は黙って背中を軽く叩いた。
その手の動きがぎこちなくて、でもやさしい。
どれくらいそうしていたのか、時間の感覚が曖昧になる。
やがて、泣き疲れた奏衣が小さく息を吸った。
涙はもう出ない。
マフラーの奥から、かすれた声が漏れた。
「……タバコ、臭いです」
女性は一瞬だけ目を見開き、それから口の端を上げた。
「うるせぇ」
風が吹く。
髪が揺れる。
夜景の光が二人の間でぼやけて、世界が少しだけ滲んだ。
冷たいはずの風が、少しだけあたたかかった。
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「……タバコ、臭いです」 鈑金屋 @Bankin_ya
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