「……タバコ、臭いです」

鈑金屋

第1章 泣く場所 ― 出会い

scene 1-01

 駅ビルのテラスは、冬になると急に他人行儀になる。


 昼間はカップルや買い物帰りの家族が写真を撮っていたはずなのに、夜になって風が冷たくなると、とたんに人がいなくなる。

 照明は最低限。落ちないように柵のライトだけが白く光っていて、その向こうに街の灯りが、海みたいに広がっている。


 その一角に、白い息を吐きながらひとりで座っている少女がいた。


 奏衣かなえ、十七歳。

 制服のブレザーの上にマフラーを重ねているけれど、それでも寒い。足元はタイツだけで守っていても、ベンチの鉄が容赦なく冷たくて、そこからじわじわと体温を奪ってくる。

 それでもここに座っているのは、ここが一番泣きやすいからだ。


「……っ」


 こらえた声が、喉の奥から勝手にこぼれる。

 泣きたくない。できるなら泣きたくない。

 学校では絶対に泣かないって決めている。だって、教室で泣いたら、誰でも見る。見たら、理由を考える。考えたら「もしかして」と気づく人が出るかもしれない。


 ――それだけは、嫌だ。


 だから、放課後すぐに逃げてきた。

 駅ビルの中を早足で上階まで上って、飲食フロアも通り過ぎて、一番奥の「展望デッキ」って書いてあるガラス扉を押して。

 外気がふっと入り込んだ瞬間、目に溜めていたものが一気に熱くなった。


 ここなら、誰も来ない。

 夜の屋上にわざわざ出てくる人なんて、よっぽどの用事か、もしくは自分みたいに逃げ場を探してる人くらいだ。

 この時間、たいてい一人占めできる。


「……っ、う、う、」


 頬を伝う涙を手の甲で慌てて拭う。けれど、拭いたそばから新しい涙がこぼれる。

 くしゃ、とポケットからティッシュを取り出して押し当てるけど、鼻も目も、もう熱くて真っ赤になっているだろう。


(言えばよかった、のかな)


 胸の中でそう繰り返すと、また涙が増える。


 美咲のことは、最初から特別だった。

 初めて同じクラスになったときから、ほとんどマンガみたいに「この子、好き」って思ってしまった。

 サラサラの髪で、背も高くて、でも話すとほんの少しだけ天然で、誰の話もちゃんと聞く。男子にも女子にも普通に優しくて、笑うときはどっちにも同じ笑い方をする。


(わたしも、ああいうふうに生まれたかった)


 そう思いながら、でも自分はそうじゃないって知ってる。

 自分は小柄で、華奢で、声が小さくて、放っておくと目線が下がっていくタイプだ。

 クラスでも目立たない方だし、何かを仕切るのも得意じゃない。なにより、人と話す前に一拍置いちゃうから、話しかけるチャンスを逃すことが多い。


 だから、美咲みたいな「中心にいても自然な人」は、遠くから見てるだけで十分だった。

 朝、教室に入るともう席にいて、友だちと話してて、そこに「おはよう」って言いに行く勇気もなくて、でも聞こえる。

「おはよー」って声が。

 それだけで、その日はちょっとだけ色がついた。


 それなのに。


『美咲にさ、彼氏できたんだって』


 たったそれだけの一言で、色が全部落ちた。

 笑いながら友だちが言ってた。美咲の机の近くで。

 本人も「あ、うん……」って、すごく恥ずかしそうに笑ってた。

 その顔がまた可愛くて、いつものように「かわいいな」って思った瞬間、胸の内側がギュッとなって、目の奥が熱くなった。


(そっか、そうだよね。美咲かわいいもんね。彼氏できるよね)


 頭ではすぐにそう言えた。だってそれは当たり前のことだ。

 美咲は女の子にモテるタイプっていうより、普通に男子にモテるタイプだ。

 自分は女の子を好きになってる。そこがもう違う。


 問題は――言えなかったことだ。


(好きですって、一回も言ってない)


 名前を呼んだことも、たぶん片手で数えられる。

 まともに二人きりで会話したことなんか、もっと少ない。


 そのくせ「彼氏ができた」と聞いただけでこんなに泣いている。

 我ながら身勝手だと思う。けど、涙は止まらない。


「うぁ……っ」


 声を殺そうとして、余計に変な音が出た。

 ここで大声を出すつもりはなかった。

 ただ静かに、誰にも気づかれないように泣いて、目を冷やして、家に帰るときにはいつもの顔に戻すつもりだった。


 でも寒さと悔しさと悲しさが一緒になって、だんだん制御が利かなくなる。

 視界の端で、柵の向こうの街がぼやける。車のライトがにじむ。


(だって、わたしは――)


“女の子のことを好きになりました”なんて、言えない。

 家でも無理。学校でも無理。友だちにも無理。

「え、そうなんだ、応援するよ!」って言ってくれるタイプの友だちもたぶんいるけど、そういう言葉をもらうのも怖い。

 それを言ったあとで、相手がちょっとだけ距離を取るところまで想像してしまうから。


 だったら言わないで、おとなしく失恋して、泣くだけ泣いて、心の中で終わりにしたほうがいい。

 自分の中だけの出来事にしておいたほうが、誰も傷つかない。

 そう思って、ここに来たのに。


「……っ……ひ、く……」


 風が吹いて、頬についた涙が冷える。

 マフラーに顔をうずめても、冷たい空気がじわじわと入ってくる。

 あまりに寒いので、膝を抱きしめるようにして丸くなる。小柄な体はすぐに小さくまとまる。


(もうちょっと泣いたら帰ろう)


 そう決める。

 そう決めるのに、次の涙がもう溢れてる。


 ほんとうは気づいていた。

 自分は、泣き方を知らない。

 誰かに甘える、っていうのをしてこなかったから、一人で泣くと変なタイミングで息が詰まる。

「うっ」と変な音が出て、余計惨めになる。


(泣き方くらい、ちゃんと誰かに教えてもらえばよかった)


 でもそんなこと、普通は教えてもらわない。

「いいよ、ここで泣いてて」なんて言ってくれる人がいたらよかったけど、そんな人は今までいなかった。

 親は忙しくて、泣く前に自分で気持ちを冷ましちゃうのが癖になって。

 小学校の頃から、泣くと「どうしたの?」って何人も寄ってくるのが恥ずかしくて、それでまた泣けなくなって。


 だから、いまさら泣き方が下手でも仕方ない。

 仕方ないけど、つらいものはつらい。


「……みさき、さん……」


 名前を出したら、さらに痛くなった。

 彼氏ができたこと自体じゃなくて、その“彼氏になれる位置”に自分が一度も行けなかったことがつらい。

 好きって言う前に、終わってしまったことが、つらい。


(そもそも、言えないよね。わたし女の子だし)


 美咲はきっと、普通に異性を好きになる子だ。

 休み時間に男子と話してるときも、楽しそうだったし、体育祭のときも男子から「美咲ー!」って呼ばれても嫌そうじゃなかった。

 そこに「わたしも好きです」と割り込むのは、違う。

 もし気持ちをぶつけたとして、困らせるだけかもしれない。

「ごめんね」って言われた瞬間の顔を想像してしまって、怖くて、言えなかった。


 だからこそ、今ここで泣くしかない。


 風がまた吹く。

 屋上の隅にある非常灯がかすかに揺れる。

 眼下を走る電車の音が、かすかに届く。

 世界はちゃんと動いてるのに、自分だけが止まってる感じがして、余計に孤独になる。


「……っ」


 口をきゅっと結んで、声を閉じ込める。

 けれど、閉じ込めた声は鼻から漏れてしまって、結局「ひくっ」と鳴った。

 情けない。ほんとに情けない。

 誰も見ていないからまだいいけど、この顔は誰にも見られたくない。


 そう思った、そのときだった。


 背後で、エレベーターの扉が閉まるような、低い音がした。

 この時間にここに来る人はほとんどいない。

 いるとしたら、ビルの従業員か、同じように夜景をちょっとだけ見て帰るカップルか。

 でも足音は一つだった。規則的で、迷いがない。

 制服のローファーとは違う、もう少し硬い音。


(……誰か来た)


 涙でにじむ視界のまま、奏衣は反射的にマフラーをぐっと上げた。

 顔を隠すようにして、肩をすぼめる。

 見られたくない。知らない人に、泣いてるところを見られたくない。

 けど、屋上は広くない。ベンチと柵のあいだを通れば、どうしてもこちらが見える距離だ。


 足音が、近づいてくる。


 風よりも先に、冷たくない別の気配が、そこに混ざった。

 次の瞬間、かすかな金属音――ライターを開く音が、闇の中で乾いて響いた。

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