祝杯はまだ遠く
ドラドラ
祝杯はまだ遠く
去年の仕事納めの日。
定時は十七時だが、この日は例年通り、午前中まで通常業務を行い、午後は大掃除、そして十五時定時となる。
窓拭きや書類整理をしながら、時計を何度も確認していた。
早く帰りたいわけではない。
ただ、この日が終わることで、一年が一区切りつくという感覚が、落ち着かない気持ちを呼び起こしていた。
十五時きっかりに作業を終え全体終礼の後、私は会社を出た。
一度家に戻り、着替えを済ませてから電車に乗る。
窓に映る自分の顔は、仕事の日とも休日とも違う、曖昧な表情をしていた。
街に出ると、すでに年末特有の浮ついた空気が満ちていた。
足取りの軽い人、紙袋を抱えた人、腕時計を気にしながら歩く人。
忘年会の開始時刻を意識しているのだろうか。
どの背中にも共通した方向性があった。
私はその流れに逆らうでもなく、ただ身を任せるように歩いた。
自分もまた、その一部なのだと、少し距離を置いたまま眺めていた。
忘年会の会場は、昔ながらの町中華だった。
赤い看板に白い文字。
ガラス戸の向こうから、油と湯気の混じった匂いが漏れてくる。
こういう店は、酒がよく似合う。
ビール瓶が並び、餃子をつまみながら一年を振り返る。
そんな光景が、自然と頭に浮かんだ。
二階の宴会場を貸し切り、忘年会が始まった。
乾杯の声が上がる。
その瞬間、私の前に置かれたのはウーロン茶だった。
願掛け通り、私は夏から酒を飲んでいない。
同じ卓についた上司が、不思議そうにこちらを見て、理由を尋ねてきた。
私は少し間を置いて、「願掛けで」とだけ答えた。
それ以上は言わなかったし、相手もそれ以上踏み込まなかった。
世の中には、聞かない方がいい理由がある。
大人たちは、その境界線を直感的に理解している。
料理は次々と運ばれてきた。
前菜の盛り合わせ、シュウマイ、餃子、春巻き、かに玉、炒飯。
どれもこれも、酒に合わせることを前提に作られているような品ばかりだった。
飲まない分、しっかり食べよう。
そう思って箸を進めたが、量も種類も多すぎた。
店側も慣れているのだろう。
持ち帰り用のパックが、最初から用意されていた。
私は炒飯とかに玉を包んでもらった。
翌日の私と妻の晩ご飯には、十分すぎる量だと、その時点で分かっていた。
娘は、まだカニのアレルギーを試していない。
そのため、別のメニューを用意する必要がある。
たったそれだけのことだが、私の中では、それもまた守るべき日常の延長線上にある。
◇ ◆ ◇
ちなみに、私は未だにビールの良さを理解できていない。
妹が某聖獣の名を模した会社に勤めている関係で、我が家ではその会社の製品を買うことが多い。
私が選ぶのは、もっぱらチューハイだった。
年末の大掃除で冷蔵庫を整理していたとき、禁酒前に買っていたチューハイが、数本出てきた。
賞味期限は、すでに切れていた。
買ってから、半年も経っていないはずだった。
酒は、思っていたよりも早く、時間に置き去りにされる。
それを手に取りながら、私は、飲まなかった日々を思い返していた。
気づけば、我慢は習慣になり、習慣は静かな決意へと変わっていた。
◇ ◆ ◇
年末年始は、妻の実家へ戻った。
向こうの実家では、いつも酒が用意されている。
祝いの席には、自然と杯が並ぶ。
私は事情を説明し、丁重に断った。
代わりに出てきたのは、ノンアルコールのカクテルだった。
グラスの中で、色のついた液体が静かに揺れている。
これくらいはいいだろう、と思った。
酔うためではなく、その場に身を置くための一杯だ。
◇ ◆ ◇
去年は、あまりにも多くのことがあった。
失ったもの、守れなかったもの、今も胸の奥に沈んでいる後悔。
それらは、年が変わったからといって、簡単に消えてなくなるものではない。
それでも、年は暮れる。
カレンダーは最後の一枚を残し、やがて新しい年が始まる。
◇ ◆ ◇
祝いとは、何だろうか。
声高に喜ぶことだろうか。
杯を掲げることだろうか。
今の私にとっての祝いは、飲まないという選択なのだと、言い切れたら楽だったのかもしれない。
だが、そう言葉にしかけて、私は首を振った。
飲まないことは、祝いではない。
ただ、飲まないでいるだけだ。
祝杯を上げないことで、まだ終わっていない祈りを手放さずにいる。
それは事実だと思う。
けれど、それを祝いと呼ぶには、どこか無理がある。
では、何が祝いなのかと問われたとき、私はすぐに答えを出せない。
胸の中を探しても、名前のつく感情は見当たらない。
喜びとも、安堵とも、決意とも違う、曖昧な塊がそこにあるだけだ。
酒を飲まない日々は、特別につらいわけではない。
ただ、節目ごとに思い出す。
なぜ自分は飲まないのか。
何を願っているのか。
今の私にとって、祝杯を挙げるということは、終わったから祝うことではない。
無事に辿り着くまで、諦めずに進むと誓うことだ。
だから私は、まだ飲まない。
次の子供が無事に生まれる、その日まで。
その時こそ、杯を手に取る。
それは我慢の終わりではない。
祈りが、一つの形を終える瞬間だ。
静かな年末年始だった。
派手な祝いはなかった。
それでも、確かに私は、一年を生き切った。
そして新しい年へ向けて、私たち夫婦はまだ、殻を温め続けている。
祝われなくてもいい。
声に出さなくてもいい。
この静かな決意だけは、確かに祝いと呼んでいい。
祝杯はまだ遠く ドラドラ @astraydoradora
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