第7話:聖域の崩壊と、大人の損得勘定
都会の中学校という迷宮の中で、私の唯一の聖域は美術部だった。
そこで出会った彼女は、私と同じように「いじめられっ子」のレッテルを貼られていたけれど、自由帳に鉛筆でサラサラと描く漫画のような絵は、プロ顔負けの生命力に溢れていた。
「上手だね……」
私がじっと見つめると、彼女は少し照れたように笑う。その穏やかな時間に、私は救われていた。
彼女の家に遊びに行った日のことは、今も忘れない。
心から温かく迎えてくれた彼女の両親と、一つ上のお姉さん。「またおいでね」という言葉の温もりに触れるたび、私は「見た目やカーストではなく、心でつながる世界」が確かにあるのだと信じることができた。
けれど、その幸せは、残酷な裏切りによって引き裂かれた。
中学二年生の二学期のある日。私から執拗にお金を巻き上げていたのは、隣のクラスの「普通の少女」だった。
呼び出されて連れて行かれたのは、小さな本屋。彼女が棚から抜き取り、私のかばんへ強引に押し込んだのは、たった一冊の少女漫画だった。
店員のおばさんの鋭い声が響く。
「本盗ったやろ!」
その瞬間、隣のクラスの彼女は無言で私を突き飛ばして逃げた。私の腕を掴む店員の指先。警察署の冷たい椅子。すべてを白状した後の、警察官の「よく言ってくれたね」という言葉。
しかし、現実はさらに醜い色を帯びていく。
父は校長室に呼ばれ、お店に謝罪に行くよう厳命された。にもかかわらず、「恥をかくのは真っ平だ。謝りに行ったことにして話を合わせろ」と、私に嘘を強いたのだ。
翌々日、私は叔母に連れられて、隣のクラスの彼女の家へと向かった。
彼女の母親は、私たちが訪ねていくまで万引きの事実を一切知らされていなかったようで、玄関先で激しく動揺していた。
叔母は、事実を知らずに困惑する彼女の母親を前に、容赦ない言葉を重ねた。
「お宅の娘さんは成績もいいし、進学も問題ないでしょう。でも、うちの愛咲は成績が悪いんです。ただでさえ高校進学が危うい時期に、内申に傷がついたら、行ける高校なんてなくなってしまう。お願いだから、もう二度と私たちの姪に関わらないでください」
彼女の母親は「お父さんに言ったら、あんた怒られるわよ!」と娘に叫び、場は混乱していた。
叔母の言葉は私を心配しているようでいて、その実、私を「成績の悪い、傷がついたら終わりの商品」のように扱う響きがあった。大人の口から飛び出すのは、私の心の傷ではなく、ただ「高校進学」という損得勘定ばかりだった。
翌日、彼女は反省するどころか私のクラスまでやってきて、「よくも親にチクってくれたわね!」と逆恨みの怒号を浴びせてきた。
孤独。絶望。
かばんの中には、あの日押し込まれた少女漫画の感触が、忌まわしい記憶としてこびりついている。
けれど、担任の先生だけは、そんな私を責めることなく優しく見守ってくれていた。そして、美術部の彼女。彼女がノートに刻む優しい鉛筆の音だけが、私の唯一の居場所だった。
帰り道の夜風は、その季節の気候とは信じられないほど冷たく、私の体を芯から凍らせた。
手元には、もう何もなかった。
でも、私の心の中には、本屋の棚で見た観月ありさちゃんの眩しい笑顔が焼き付いていた。
大人が語る「成績」や「世間体」なんて関係のない、圧倒的に美しくて、圧倒的に自由な世界。
現実に打ちのめされ、凍えそうな体を引きずりながら、私はその「遠い光」だけを見つめて、暗闇の中を歩き続けた。
次の更新予定
『死を願った13歳、二度目の命をくれた歌姫 ―心臓手術と観月ありさの奇跡―』 如月 愛咲(きさらぎ ありさ) @Arisa_Story
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