第6話:元旦に届いた奇跡、そして「伝説」の幕開け
1991年、正月。
私は父と叔母に連れられ、田舎の祖父母の家へ帰省していた。都会の冷たい空気から逃れるように過ごしていた元旦、祖母が「愛咲ちゃんに年賀状が届いているよ」と一枚のハガキを差し出した。
受け取った瞬間、指先が震えた。
そこには、艶やかな着物姿で微笑む彼女がいた。
「'91」という文字が躍る、観月ありさちゃんからの年賀状。
十歳の頃から、行き場のない想いを綴り、何度も送ったファンレター。返事なんて期待していなかった。ただ、暗闇の中で彼女という光に触れていたい一心だった。それが、三年の時を経て、初めて私の手元に届いたのだ。
それは、神様が「まだ生きなさい」と言っているような、そんな気がした。
1991年5月15日、伝説の誕生
都会に戻り、二年生へと進級しても、相変わらず私の居場所はどこにもなかった。
クラス替えで、私を追い詰めていた子とは別のクラスになったが、彼女の支配からは逃れられなかった。
「お昼代、持ってきてるよね?」
毎週土曜日、仕事で家を空ける父と叔母が残してくれる五〇〇円の昼食代。それは、言葉巧みに彼女のポケットへと吸い込まれていった。腹を満たすためのコインが、屈辱に耐えるための代償に変わる。空腹よりも、奪われる瞬間の自分の惨めさが、胃の奥をキリキリと痛ませた。
そんな地獄のような日々の中、ついに「その日」が訪れた。
1991年5月15日。
テレビの音楽番組から流れてきたのは、耳に焼き付くような鮮烈な旋律。
「観月ありさ、『伝説の少女』でデビュー!」
確信して待っていた。彼女は絶対にデビューする。三年間、そう信じ続けていた予感は、確かな現実となった。
我が家にはオーディオ機器などなく、CD一枚買う余裕もなかった。けれど、テレビをつければ彼女がいた。光り輝くステージで、彼女は堂々と笑っていた。
「生きていてよかった」
生まれて初めて、心の底からそう思えた。彼女が笑っている。ただそれだけのことが、死を望んでいた私の足元を照らす、唯一の松明(たいまつ)になった。
予期せぬ場所からの救い
学校生活は、依然として針のむしろだった。
家庭科の授業、教科書を忘れた私に、教師の激しい往復ビンタが飛んだ。頬が焼けるように熱く、クラス中の視線が突き刺さる。けれど、その痛み以上に驚いたのは、授業が終わった後のことだった。
「大丈夫?」
「ひどすぎるよね」
これまで私を遠巻きに見ていたクラスメイトたちが、初めて私を気遣う言葉をかけてくれたのだ。人の温かさを、私は往復ビンタの熱さの中で知った。
そして、運命はさらに意外な方向へと動き出す。
異変は、廊下で起きた。
私を呼び止めたのは、隣のクラスにいた数人のヤンキー女子たちだった。
彼女たちは派手な身なりで、学校のルールからはみ出した存在。私とは住む世界が違いすぎて、それまで一度も言葉を交わしたことさえなかった。
そんな彼女たちが、なぜか私の前で足を止めた。
「あんた、〇〇にお金取られてるやろ? 今までなんぼ取られたん?」
低い、けれど確信に満ちた声だった。
なぜ、彼女たちがそれを知っているのか。私を標的にしているグループとは何の関係もないはずの彼女たちが、なぜ今、私に声をかけるのか。あまりの衝撃と困惑に、私は問い返すことさえできなかった。
「私らが取り返してあげるから、なんぼか言って」
俯く私を覗き込むようにして、彼女たちは言った。
「次の休み時間に聞きに来るから、思い出しといて」
約束通り、彼女たちは次の休み時間に現れ、私は絞り出すような声で金額を伝えた。
そして翌日。
私の手元には、奪われていたはずのお金が、一円の狂いもなく全て戻ってきた。
自分を追い詰めるのも「他人」なら、そこから掬い上げてくれるのもまた、予想もしない「他人」だった。
話したこともなかった彼女たちの背中を見送りながら、私は都会の冷たい廊下で、返ってきたお金の重さをいつまでも感じていた。
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