第2話 「怒りの翻訳者」
第2話 「怒りの翻訳者」
結局、新谷はカウンセリングを受けることにした。
人事部から渡された紙を、何度も折り直しながら駅を出る。行かなければならない理由は分かっていたし、行きたくない理由もはっきりしていた。
それでも足は止まらなかった。説明がつかないまま扱われる方が、よほど耐えがたかった。
カウンセリングルームは、思っていたより普通だった。
白すぎない壁。低すぎない天井。観葉植物は元気すぎず、枯れすぎてもいない。気を遣われている空間だ、と新谷は思った。
「どうぞ、楽にしてください」
産業カウンセラーの男は、年齢の分からない顔をしていた。若くも見えるし、老けても見える。感情を顔に残さない訓練でも受けたような表情だった。
新谷は椅子に座り、背もたれを使うかどうか一瞬迷ってから、使った。
「入江といいます。今日はよろしくお願いします」
名刺は出てこなかった。ただ名乗るだけの自己紹介だったが、それで十分だった。
「怒っている自覚はありますか?」
いきなり核心だった。
「ありません」
即答だった。
「説明しているだけです」
新谷はそう言い切るように言った。語尾を下げ、感情が乗らないように意識しながら。
入江は小さく頷いた。
「では、“怒っていないとき”と“怒っているように見えるとき”の違いは、何だと思いますか」
新谷は言葉に詰まった。
そんな区別をしたことがなかった。
「……声量、ですかね」
「ほかには?」
入江は急かさず、間を置いて聞いた。
「言葉が、早くなる」
新谷は天井を見ながら答えた。
「それは、なぜでしょう」
入江は静かに問いを重ねる。
新谷は黙った。
なぜ急ぐのか。
なぜ止まれないのか。
「相手が、分かってないからです」
それは新谷の言葉だった。
思っていたより強く、はっきりと口から出た。
出てきた答えは、少し荒れていた。
「分からないまま話が進むのが、耐えられない」
新谷は拳を軽く握りながら、続けた。自分の中にある焦りを、そのまま言葉にした。
入江はメモを取らなかった。ただ聞いていた。
「新谷さんは、怒りを感じる前に、“違和感”を感じるタイプですね」
入江は確認するような口調で言った。
「違和感?」
新谷は眉をひそめた。
「話がずれている。
自分が大事だと思っている点と、相手が受け取っている点が噛み合っていない。
それを修正しないまま次に進もうとする――その状態が、強い不安になるんです」
入江は、噛み砕くように説明した。
新谷は、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
怒りじゃない。
違和感。
「その違和感を、言葉にしようとする」
入江は続けた。
「でも、その言葉が多くて、速くて、正確すぎる」
正確すぎる、という言い方が妙に引っかかった。
「相手が追いつく前に、全部言ってしまう。結果、相手は“責められている”と感じる」
入江は責めるでもなく、分析結果を読み上げるように言った。
「……責めてないんですが」
新谷は少しだけ視線を逸らして言った。
「ええ。分かっています」
入江は初めて、はっきりとそう言った。
その言葉に、新谷は救われた気がした。
「あなたの怒りは、内容が複雑なんです」
入江はそう結論づけた。
「複雑すぎて、そのままでは相手に届かない」
入江のカウンセリングはそれ以上、踏み込まなかった。
アドバイスも、改善策も、出なかった。
ただ最後に、こう言われた。
「あなたの言葉は、翻訳が必要です」
会社に戻ると、上司の三浦に呼ばれた。
「新谷さん、ちょっと話があってね」
会議室ではなく、給湯室だった。コーヒーの匂いがする。
「実はね」
三浦はカップを持ったまま言った。
「クレーム対応の件で、新しい役割を考えてて」
嫌な予感はしなかった。
むしろ、静かな期待に近いものがあった。
「新谷さんには表に出るんじゃなくて、裏で支える役をやって欲しいんだ」
三浦は言葉を選んでいた。
「怒ってるお客さんの話を聞いて、要点を整理して、対応文を作る」
「……それって」
新谷は一瞬考え、言葉を探した。
「新谷さん、得意だろ?」
新谷は答えなかった。
得意かどうかは分からない。
ただ、やれる気はした。
その日から、新谷は電話を取らなくなった。
代わりに、横で聞いた。
怒鳴る声。泣く声。理不尽な言葉。
新谷はメモを取った。
感情を削ぎ落とし、構造にする。
――この人は、説明不足に怒っている。
――この人は、待たされたことに傷ついている。
それを、短い文章に直す。
同僚がその文章を読んで、電話をかける。
「……すごいですね」
後輩の和田が言った。
「さっきまで怒鳴ってたのに、普通に話してます」
新谷は、少しだけ口角を上げた。
数日後、佐伯が声をかけてきた。
「あの……新谷さん」
新谷が顔を上げると、佐伯は少し緊張した様子で立っていた。
「私、前より落ち着いて対応できるようになった気がします。
新谷さんのおかげで、成長できたと思います」
新谷は一瞬、言葉に迷った。
「……別に」
そう前置きしてから、
「佐伯さんがちゃんと考えた結果だと思いますが」
それだけ言って、モニターに視線を戻した。
佐伯は小さく頭を下げて、その場を離れた。
怒りは、消えていなかった。
ただ、形を変えていた。
数週間後。
久しぶりに、新谷が前に出る場面があった。
会議室。
同じ顔ぶれ。
また意見がぶつかり、空気が張りつめる。
新谷の中で、あの感覚が立ち上がる。
違和感。
ずれ。
放置される不安。
声が出かけた、その瞬間。
新谷は、一拍置いた。
「……今、ちょっと私は怒ってます」
全員の不安な視線が集まる。
新谷は続けた。
「だから、ちゃんと説明します」
声は低かった。
言葉は、少なかった。
誰もペンを落とさなかった。
会議は、最後まで終わった。
「さっきのさ」
会議後、三浦が近づいてきた。
「変わったな、新谷さん」
「……変わってません」
新谷は即答した。
「やり方が、少し違うだけです」
三浦は苦笑して、何も言わなかった。
帰り道、ガラスに映る自分の顔を見た。
相変わらず、険しい。
でも。
新谷は、初めてその顔を、少しだけ信じられる気がした。
「ヒステリック新谷」 なかごころひつき @nakagokoro
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