「ヒステリック新谷」

なかごころひつき

第1話 「新谷は怒っていない」

第1話 「新谷は怒っていない」


 新谷は、自分が怒っていると思ったことがなかった。

 少なくとも今日の朝までは。

 出社してすぐ、オフィスの空気がいつもより重いことに気づいた。エアコンの効きが悪いわけでも、雨が降っているわけでもない。誰もが視線をモニターに落とし、必要以上にキーボードを叩く音を立てている。まるで、これから雷が落ちると分かっていて、空を見上げないようにしている村人みたいだ、と新谷は思った。

 理由は分かっている。

 自分だ。

 正確に言えば、昨日の自分。

 新谷は席に着き、椅子を引く音をできるだけ立てないようにした。だが、その配慮は無駄だった。斜め前の後輩、和田が一瞬だけ肩をすくめるのが見えた。

 ――ああ、もう始まってる。

 パソコンを立ち上げる。ログイン画面が表示されるまでの数秒が、やけに長く感じられた。

 とりあえず昨日のことを思い出そうとしよう。

 顧客からのクレーム電話。対応したのは新人の佐伯。マニュアルを読めば防げた内容だった。

 顧客は激昂していた。

 請求内容が違う、説明を受けていない、そんな話を何度も繰り返していたらしい。佐伯はマニュアルをめくりながら応対したが、肝心なところで判断を誤った。確認すべき部署に回さず、その場しのぎの謝罪を重ね、結果として怒りを増幅させた。

 最終的には声を荒げた顧客から「責任者を出せ」と言われ、上司の三浦が電話を代わって十分ほどで話をまとめた――そんな顛末だった。

 新谷はそれを指摘した。

 起きた順に事実を並べた。どこで確認を怠ったのか、なぜ顧客の怒りが増したのか、上司の三浦が出たことで何が変わったのか。個人攻撃にならないように言葉を選びながら、再発防止のためだ、と何度も前置きをした。

 声は少し大きくなったかもしれない。

 言葉も、多少、鋭かったかもしれない。

 でも――。

「怒ってた、って言われるほどか?」

 新谷は小さく呟いた。もちろん、誰にも聞こえない声量で。

 ただ説明しただけだ。会社の為に。そして佐伯の為に。

 事実を、順番に、論理的に。

 それを「ヒステリック」と呼ぶなら、この会社の会議は全部ヒステリーだろう、と新谷は内心で毒づいた。

 午前十時。定例ミーティング。

 会議室に入ると、空気が一段、冷えた。誰もが新谷を避けるように、微妙に距離を取って座っている。空いた席は、新谷の両隣だけだった。

 上司の三浦が、咳払いをしてから口を開く。

「えー……昨日の件なんですが」

 来た、と新谷は思った。

「クレーム対応について、少し振り返りをしたいと思います」

 ホワイトボードに書かれる「対応の改善点」という文字。その下に箇条書きが増えていく。

・言葉遣い

・声のトーン

・相手への配慮

 新谷は黙って見ていた。

 そのどれもが、肝心な部分を避けている。

「佐伯さん」

 三浦が言った。

「昨日は、大変だったね」

 佐伯は小さく頷き、ちらりと新谷を見て、すぐに視線を落とした。

「はい……」

「確かに佐伯さんにもまだまだ経験不足があったのかもしれないね。ただね」

 三浦は続ける。

「指導する側も、伝え方を考えないといけない」

 その瞬間、新谷の胸の奥で何かが、カチ、と音を立てた。

 理屈では分かっている。ここで何も言わずに流せばいい。大人なんだから。

 でも、口が勝手に動いた。

「具体的に、どの部分ですか?」

 会議室が静まり返る。

 三浦が一瞬、言葉に詰まる。腕を組み、天井をちらりと見上げてから視線を戻した。面倒なものに触れてしまった、という表情だった。

「えっと……全体的に、かな」

「全体的、だと改善できないですよね」

 新谷は、淡々とした口調のつもりだった。声も抑えている。語尾も荒げていない。

 だが、後輩の和田がペンを落とす音が、やけに大きく響いた。

「佐伯さんの対応で、どこが問題だったのか。それを共有しないと、同じことが起きます」

 新谷は椅子に深く座り直し、ホワイトボードに視線を向けたまま話した。佐伯を見ないようにしているつもりだったが、言葉は確実に佐伯の方へ向かっていた。

「新谷さん」

 上司の三浦の声が少し強くなる。

「そういう言い方がね」

「どういう言い方ですか?」

 新谷は本気で分からなかった。

 正論だ。事実だ。感情論ではない。

 なのに、会議室の全員が、今にも爆発する爆弾を前にしているような顔をしている。

「分かりました。……もういいです」

 三浦はそう言って、話題を切り上げた。

 新谷の喉まで言葉がせり上がった。

 まだ終わっていない。原因も対策も途中だ。だが視線を上げると、誰もこちらを見ていなかった。後輩の和田は机を見つめ、佐伯は肩をすぼめ、上司の三浦は資料を閉じている。

 新谷は奥歯を噛みしめ、息を飲み込んだ。

 会議は予定より早く終わった。

 廊下に出ると、張りつめていた空気が一気にほどけるのが分かった。後ろから、小さなため息がいくつも聞こえる。

 新谷は、ひとりだけ取り残されたような気分で、自席に戻った。

 昼休み。

 誰も新谷を誘わない。コンビニの袋を持って、自然と席を立つ人たち。その背中を、新谷はぼんやり眺めていた。

 ――別に怒ってないのに。

 その言葉が、頭の中で何度も反芻される。

 午後三時、人事部からの内線が鳴った。

「新谷さん、少しお時間いいですか?」

 穏やかな声だった。

 だが、その穏やかさが、逆に不安を煽った。

 人事部の小さな会議室。窓はあるが、ブラインドは半分閉まっている。

 担当の女性が、資料を前にして微笑む。

「最近、お疲れではありませんか?」

 その言葉に新谷は、即答できなかった。

 疲れているかどうか、自分で判断できないほど、毎日が同じだった。

「……普通です」

 新谷は背もたれに体重を預け、声の調子を一瞬だけ意識してそう答えた。

「そうですか」

 女性は頷き、言葉を選ぶように続けた。

「周囲から、少し心配の声が上がっていまして」

 心配。

 その言葉が、妙に胸に引っかかった。

「怒っているように見える、と」

 女性は視線を外し、資料の端を指で整えながら言った。

 やっぱりそれか、と新谷は思った。

「怒ってません」

 反射的に言った。

「説明してるだけです」

 女性は否定も肯定もせず、静かに言った。

「一度、外部のカウンセリングを受けてみませんか?」

 新谷は、言葉を失った。

 ヒステリックなのは、自分なのか。

 会議室を出たとき、夕方の光がやけに眩しかった。

 新谷は立ち止まり、ガラスに映る自分の顔を見た。

 険しい顔だった。

 ――あれ。

 初めて、新谷は思った。

 もしかして。

 私は本当に、怒っているのかもしれない。

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