おまけ 神話の神話
最初に混沌があった。
人類が言語を獲得したのだ。五万年前。小さな言葉の断片が浮かんでいた。「俺の石器見て」「ハマグリ拾いに行く」「火種を踏むなよ」
子どもが問いを発した。
「火ってさあ、なんで燃えるの?」
親がうろたえる。
「えっ? あ、いや、そりゃお前、火の神様だよ」
火の神が、生まれた。
火には火の神様がいる。だから粗末にしたらダメ。怒らせると家が燃えちゃうよ。大事にしようね。
お母さんから教わったこと。お母さんはおばあちゃんから教わった。昔から伝わる、神様の話。
水の神、山の神、川の神。
この世は神に満ちてきた。
神とともにあるのが当たり前になってきた。
「なんで人は死ぬの?」
子供が問う。おばあちゃんが死んだからだ。安易な答えはできない。親はシャーマンに聞きに行く。
「昔、人は永遠に生きた」
子供が目を見張る。
「じゃあなんでおばあちゃんは死ぬのさ!」
「ヘビのように何度も脱皮して、永遠に生きた。でもある日、脱皮して若返った祖母を見て、孫が泣いた」
「なんで?」
「大好きなおばあちゃんが知らない人になったと思ったんだよ。おばあちゃんを返せ! と言って聞かなかった」
子供は黙って聞いている。
「だからおばあさんは、脱いだ皮を拾ってまた着た。子供は喜んだよ。でもそれ以来、人は脱皮ができなくなった」
「脱いだ皮をまた着たから?」
「そうだよ。だから、人は死ななくちゃならない」
人の死にまつわる神話が世界中で生まれた。多くは身近なモチーフを参考にして。
こうして、素朴な宗教が生まれた。
「お日様は暖かいね」
「そうだよ。無くなったら大変だよ」
「そんなことがあったの?」
「そう。昔、お日様の神様が、隠れたことがあった」
神話は続いていく。
「俺たちの祖先はワニの神だ」
「うちはツバメだ」
「うちはヘビだ」
神を祖先と結びつける思想が生まれた。「トーテム氏族」だ。
トーテムは一族の結束を高め、行動様式を説明した。
目に見えるものはすぐに使い切った。神は抽象度を高めていく。
「棒を振ったとき、フッと音がするだろ? あれを神格化したのがフツヌシだ。」
剣を振るう音、風を切る音。そういう目に見えない力も、神になった。
神が増え、抽象概念まで代表するようになると、神だけでストーリーが完結するようになってきた。世界の始まりから終わりまで、神の話だけで完結する。ストーリー型神話の誕生である。
ストーリー型神話は、一個のきっかけから芋づる式に、世界観へ引きずり込む力を持つ。
「嘘をついてはいけません」
「なんで?」
「閻魔さまに舌を抜かれるよ」
「閻魔さまって?」
「地獄か極楽かを決める人」
「極楽?」
「極楽にはお釈迦様がいてね」
「お釈迦様?」
そして、ストーリーの最後に世界の終わりを語る。
「世界は終わるの?」
「そうだよ。昔、一度終わりかけた。大洪水で。ノアの家族だけが生き残った」
「なんで?」
「神様の言うことをよく聞いたからだよ」
人は説明が好きだ。ストーリー型の神話は、一貫した説明を与えられる。どこから入っても、同じ世界へ引き込まれる。
一方、多神教はバラバラだ。個々のお話は別々だし、世界観も統一していない。
しかし、バラバラのお話にも良いところがある。お話が旅をするのだ。
インドネシアでシカがワニの上を跳んで渡る話が生まれた。「数を数えてあげよう」と言って。
フィリピンでサルがワニの上を跳んで渡る話になった。「数を数えてあげよう」と言って。
日本ではウサギがワニ(サメ)の上を跳んで渡る話になった。「数を数えてあげよう」と言って。
スコットランドではアザラシが人の姿で妻になった。正体を知られて去ったが、子供たちを見守った。
フランスではヘビが人の姿で妻になった。正体を知られて去ったが、子供たちを見守った。
日本では豊玉姫が人の姿で妻になった。サメの姿を見られて去ったが、子供は天皇の祖先になった。
日本には世界から流れ着いたお話がたくさんある。それは公式の日本神話として記録され、広く民衆に知られている。神社と神事があり、今も生きている。
しかし実は、こうした例は少ないのだ。素朴な個別の神話は、ストーリー型の神話と比べて、弱い。
出会い頭に、取り込まれてしまう。
手順は大体同じだ。いきなり否定するのではない。「あなたの神も、我々の神の別の姿だ」と言って、融合しようとする。敵意ではない。むしろ寛容の顔をしている。「あなたの信仰を否定しない。ただ、より大きな真理の一部として位置づけよう」。
そして、名前の置換が始まる。土着の神の名前が、外来の聖者の名前に置き換わる。
ヨーロッパ各地には、大地の女神がいた。豊穣を司り、母なる存在として崇められていた。キリスト教がやってきて、その女神たちは「聖母マリア」になった。祈る対象は変わらない。祈り方も変わらない。しかし、名前が変わった。「なぜこの像に祈るのか」と問われたとき、答えは「神の母だから」になった。
「なぜこの日にお祭りをするの?」「聖母マリアの日だからだよ」
本当は、違うのに。
子供にしてみれば「幼いころ、母から聞いた話」となる。孫の世代では「祖母からずっと伝えられてきた話」になる。
日本も危ないところだった。アマテラスは大日如来と呼ばれたりゼウスと呼ばれたりした。でも、アマテラスは今も生きている。なぜか。
古事記、日本書紀があったからだ。文書化され、公式の神話として、国が管理した。万世一系の天皇がある限り、これは公式神話であり続ける。
きっかけは、外圧だった。
六六三年、白村江の戦いに大敗。日本は侵略の危機に怯えた。
国策としての国防政策。そのなかに、国史の編纂もあった。
天皇の正統性を語れなければ、唐に、国として認められない。
その頃、各地域に、各豪族に、それぞれの神話があった。国史は無かった。急ごしらえで、天皇中心にまとめるストーリーを作った。素朴なお話の群れをまとめて、一個のストーリーに仕立てたのである。
天皇家のアイコンは「天孫族」、多くの豪族のアイコンは「出雲族」としてまとめた。
世界から流れ着いたお話も、国で独自に生まれたお話も、全て語った。最後に「天孫族に譲った」というひと言だけ、取って付けたように、付けた。
結果、日本神話は外から見れば「建国神話」に見える。ストーリー型神話の文法に則り、世界の始まりから今の天皇までの流れを朗々と語る。外国にも子どもにも論破されない神話体系を築いた。
例えるなら、モナカだ。和菓子の最中。天孫神話が皮。出雲神話が餡。おいしいのは餡だけど、餡だけでは戦えない。天孫神話が出雲神話をくるんで守っている。
うまくいった。少なくとも「始まりから、今まで」については。
それで十分だったのだ。当時の必要性としては。
そもそも日本には「世界の終末」を語る神話がなかった。素朴な神話は一般に、世界の終わりを語らない。終末を語るのは生粋の「ストーリー型神話」だ。終末と審判で人を従わせる構造は、日本には無かった。だから語らなかった。
その状態で、側面には、仏教が来ていた。
蘇我氏と物部氏の争いは、仏教と神道の争いでもあった。両者は拮抗しながら、六百年かけて、ついに、混じり合う。
神仏習合と、分業。
神道は「はじまり」を担当した。七五三、初詣。
仏教は「終わり」を担当した。葬式、死後の審判、地獄極楽。末法思想。
蘇我と物部の争いから六百年かけて、神道と仏教はタッグを組んだのだ。日本神話が持っていなかった「終末」の部分を仏教が補完した。
「お盆」が境界だ。「あの世」からご先祖が帰ってくる、という神道寄りの民間信仰を、仏教の僧が仲介する。
本地垂迹で理論の相互乗り入れも整備した。
この状態で、大航海時代が到来。
キリスト教を迎え撃つ。
結果はご存知の通り。激戦はあったものの、アマテラスは今も、マリアでもゼウスでもなく、アマテラスのままだ。
日本神話のモナカ作戦。
仏教との戦いと、その後の共闘。
大航海時代をサバイブ。
神話の神話はまだまだ続く。
【比較神話学】⑤ 神の名前 —消えた神話と残った神話— くるくるパスタ @qrqr_pasta
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