第14話 半額シールの争奪戦と、酵素で柔らかくした豚の生姜焼き
午後6時30分。
私は戦場に立っていました。
場所は、マンションから徒歩5分のスーパーマーケット『コープ』
特養での勤務を定時で切り上げ(残業などしません。私の帰りを待っているのは胃袋を空かせた珍獣ですから)、速足で向かった先にある精肉コーナーです。
私の視線の先には、一人の店員さんがいます。
彼の手には、魔法のシールが握られています。
そう、『20%引き』、あるいは神の奇跡たる『半額』シールです。
周囲には、私と同じような目をしたライバルたちが虎視眈々と獲物を狙っています。
主婦、学生、そして疲れたサラリーマン。
ですが、私は負けません。
特養の食堂で、食事介助の順番待ちをさばいてきた動体視力を舐めないでいただきたい。
店員の手が動き、豚ロース薄切りパックにシールが貼られた瞬間
――私の右手が閃光のように伸びました。
「確保」
無事にゲットしました。
国産お米豚ロース、100グラム198円が20%引き。
今日の夕食のメインディッシュはこれです。
なぜバラ肉ではなくロースなのか。
もちろん、脂質の量です。
バラ肉は脂が旨いですが、現在の浦安さんの胃腸には負担が大きすぎます。
ロースの適度な脂身を活かしつつ、赤身のタンパク質(ビタミンB1)を摂取させる。
これが最適解です。
カゴに豚肉を入れ、次は野菜コーナーへ。
キャベツ(ビタミンU)、玉ねぎ(硫化アリル)、そして生姜。
迷いはありません。
私の頭の中には、すでに完璧な栄養計算と調理工程が構築されています。
レジで支払いを済ませ、袋詰めをしながら、ふと我に返りました。
45歳、独身男性。
スーパーの特売で数十円を節約し、アイドルとの同棲生活の糧(かて)にする。
やれやれ。
世間の人が聞けば「ヒモ」と罵るかもしれませんが、違います。
これは「高度な在宅栄養管理」なのです。
そう自分に言い聞かせ、私は帰路につきました。
◇
午後7時10分。
玄関のドアが開く音がしました。
「たらいまぁ……」
リビングに入ってきたのは、またしても生ける屍と化した浦安舞さんでした。
ハイブランドのバッグをソファに放り投げ、そのままラグの上に突っ伏します。
「疲れた。もう指一本動かない……」
「お疲れ様です。手洗いとうがいだけは済ませてください。感染症予防の基本です」
「あさひさんの鬼ぃ」
文句を言いながらも、彼女はのろのろと洗面所へ向かいました。
素直な患者です。
その間に、私は仕上げにかかります。
今日のメニューは『特製・豚の生姜焼き』
ただし、街の定食屋で出るような、脂ギトギトで味の濃いものとは訳が違います。
ポイントは「酵素」です。
すりおろした玉ねぎと舞茸を、あらかじめ豚肉に揉み込んでおきました。
玉ねぎのプロテアーゼなどの酵素が、肉の筋繊維を分解し、驚くほど柔らかくするのです。
高齢者でも噛み切れるレベル、いわゆる「ソフト食」の技術の応用です。
ジュワァァッ……!
フライパンに肉を広げると、食欲をそそる音が響きます。
味付けは、醤油、酒、みりん。砂糖は使いません。
みりんの優しい甘さと、生姜の辛味だけで仕上げます。
最後に、千切りキャベツの山盛りの横に、黄金色に輝く豚肉を盛り付ける。
完璧です。
「いい匂い……」
洗面所から戻った浦安さんが、鼻をクンクンさせてキッチンに寄ってきました。
その目は、獲物を狙う肉食獣のように鋭くなっています。
「座りなさい。配膳しますから」
ダイニングテーブルに向かい合う二人。
彼女の前には、ほかほかの白米(消化を助けるため少し柔らかめに炊いてあります)、豆腐とわかめの味噌汁、そして生姜焼き。
「いただきます!」
彼女は箸を伸ばし、まずはキャベツではなく、肉へ直行しました。
ベジファースト(野菜から先に食べる)を指導したいところですが、今の彼女の空腹レベルでは無理でしょう。
パクッ。
一口食べた瞬間、彼女の動きが止まりました。
「ん!!」
目を見開き、もぐもぐと咀嚼します。
「や、柔らかい……!え、これ豚肉?なんか溶けるんだけど!?」
「下ごしらえに酵素を使っていますからね。消化吸収率も段違いです」
「おいしぃぃぃ……!」
彼女は白米をかき込みました。
生姜醤油の絡まった肉でご飯を巻くようにして、小さな口に放り込んでいく。
その食べっぷりの良さといったら。
リスが頬袋に詰め込んでいるようでもあり、見ていて清々しい。
「今日ね、ロケ弁が高級焼肉弁当だったの」
口の端にご飯粒をつけたまま、彼女が言いました。
「でも、なんか油っぽくて全然食べられなくて……スタッフさんには『ダイエット中なんで』って嘘ついたけど、本当はあさひさんのご飯が食べたかったの」
……ドキリとしました。
高級焼肉よりも、私がスーパーで20%引きで買った豚肉が良いと。
これは、料理人冥利に尽きる言葉です。
いえ、管理栄養士冥利でしょうか。
「それは賢明な判断です。過労状態での過剰な脂質摂取は、下痢の原因になりますから」
「もー、すぐそういう理屈言う!素直に『嬉しい』って言えばいいのに」
彼女はニシシと笑い、私のお皿から勝手に肉を一枚奪っていきました。
「あ、こら。タンパク質の計算が狂います」
「いいじゃん、若いんだからタンパク質必要なの!」
楽しそうに肉を頬張るその唇は、タレで艶々と光っています。
無防備で、あどけなくて。
その笑顔を見ていると、スーパーの特売戦争での疲れなど、どこかへ消えてしまうような気がしました。
……いけませんね。
これではまるで、新婚家庭の食卓です。
私は45歳の独身おじさん。
彼女は21歳の国民的アイドル。
この空間だけが、世間の常識から切り離されたエアポケットのようです。
「あさひさん、お代わり!」
「はいはい。ご飯の量は150グラムでいいですか?」
「大盛りで!」
茶碗を差し出す彼女の白い手を見ながら、私は小さく溜息をつき、炊飯器へと向かいました。
やれやれ。
食費の計算も、やり直さなければなりませんね。
次の更新予定
国民的アイドルが求めたのは、フレンチでも焼肉でもなく、特養勤続20年の俺が作る「介護食」でした。 雨光 @yuko718
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。国民的アイドルが求めたのは、フレンチでも焼肉でもなく、特養勤続20年の俺が作る「介護食」でした。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます