第13話 一夜明けて、静寂と現実の特別養護老人ホーム

翌朝、午前6時。  


私は自室のベッドで目を覚ましました。  


隣にアイドルの寝顔……はありません。


あるのは抱き枕代わりのニトリのクッションだけです。  


耳を澄ませても、聞こえてくるのは冷蔵庫のコンプレッサー音と、遠くを走る車の走行音のみ。  


静寂です。


「夢、ですかね」


私は洗面台の鏡に向かって独りごちました。  


鏡の中の私は、昨日と変わらない45歳の冴えない中年男です。  


頬を指でなぞってみます。  


昨夜、汐留の楽屋で受けた、あの柔らかい感触。  


あれは深夜のテンションが見せた幻覚だったのかもしれません。


そもそも、国民的アイドルが私のようなおっさんに「チップ」としてキスをするなど、ファンタジー小説でもボツになる設定です。


私はあくびを噛み殺し、キッチンへ向かいました。  


誰もいないリビング。  


ですが、シンクには昨夜私が洗って伏せておいた、彼女専用のマグカップが乾燥しています。  


……夢ではなかったようです。  


やれやれ。  


彼女は収録後、事務所の寮かホテルにでも泊まったのでしょう。


あんな時間から千葉まで戻ってくるほど、売れっ子アイドルは暇ではありません。


私は自分一人分の朝食(納豆ご飯と即席味噌汁)を淡々と腹に収め、出勤の支度を整えました。


 ◇


午前8時30分。  


私の職場である特別養護老人ホームの厨房は、戦場の一歩手前の忙しさでした。  


朝食の配膳が終わり、洗浄と昼食の仕込みが同時に進行しています。


「我孫子先生、おはようございます!」


「おはようございます。チーフ、今日の昼食の『サバの味噌煮』ですが、刻み食の方へのとろみ調整、少し強めにお願いします。昨日の夕食時、ムセが見られた方が数名いらっしゃいましたから」


「了解です!」


白衣に着替え、厨房靴に履き替えた私は、完全に「管理栄養士モード」に切り替わっています。  


ここには、煌びやかなスポットライトも、甘いグロスの香りもありません。  


あるのは、消毒液の匂いと、出汁の香り、そして高齢者の命を預かる責任感だけです。


昼食は、ミールラウンド(食事観察)の時間です。  


私は各ユニットを回り、入居者様が食事を摂る様子を観察します。  


咀嚼の回数、飲み込みのタイミング、姿勢。


それらをチェックし、必要であれば食事形態を変更する。


地味ですが、誤嚥性肺炎を防ぐための最重要業務です。


「あら、我孫子さん。いい男が台無しよ、そんな怖い顔して」  


声をかけてきたのは、入居者の田中さん(82歳・女性)でした。


車椅子に座りながら、ニコニコと私を見ています。


「田中さん、おはようございます。怖い顔とは心外ですね。これは真剣な顔です」


「ふふ、そうねぇ。でも、なんかいいことあったでしょ?」


「は?」  


私はケースを書く手を止めました。


「女の勘よ。なんかこう、色が差してるっていうか……浮ついた顔してるわよ」


ドキリ、と心臓が跳ねました。  


まさか、80代の女性にまで見透かされるとは。  


昨夜の「チップ」の熱が、まだ私の顔に残っているとでも言うのでしょうか。


「田中さん、今日の主菜は大好物のサバですよ。しっかり食べてくださいね」


「はいはい、誤魔化されたわねぇ」


田中さんは楽しそうに笑いました。  


私は逃げるようにその場を離れ、栄養課の事務所へと向かいました。  


まったく、女性という生き物は、何歳になっても鋭い。


デスクに戻り、パソコンを開いた時です。  


スマホが短く振動しました。  


業務中は私用スマホは見ない主義ですが、画面に表示された通知を見て、私の指が止まりました。


 『LINE:浦安舞』


ID交換などした覚えはありません。  


おそらく、あの強引なマネージャー経由か、あるいは私のスマホを勝手に操作したか。  


恐る恐る開くと、スタンプが一つ。  


土下座をするウサギのキャラクター。  


そして、短いメッセージ。


『おなかすいた。今日の夕飯なに?19時ごろ帰ります(ハート)』


……帰ります、ですか。  


そこは貴女の家ではありませんし、私は貴女の夫でもありません。  


ですが、私の脳内では、瞬時に冷蔵庫の在庫確認と、疲労回復メニューの構築が始まっていました。


「やれやれ」


私は溜息をつき、返信を打つ代わりに、スマホをポケットに深くねじ込みました。


どうやら私の平穏な日常は、まだしばらく戻ってきそうにありません。

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